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プラザ合意以前

資金不足の「貸し手市場」時代

1985年9月のプラザ合意は戦後経済の大きな転換点となった出来事ですが、それ以後の変化を理解するためにも、まずはプラザ合意以前の金融業界がどうだったかというお話から始めたいと思います。

戦後、日本経済の復興期から高度成長期にかけて、長いこと資金不足の時代が続きました。
戦後一貫として資金不足の時代だったと言っても過言ではありません。
企業の資金調達も主に銀行からの融資に頼っていました。これは、銀行から見れば完全な「貸し手市場」です。また、70年代までは日銀による貸出枠の設定もありました(窓口規制)。当時は、あまり正確ではないかもしれませんが、銀行が融資できる金額の3倍くらい(金融の逼迫時にはそれ以上)の借入れ申込があったように思います。銀行としては多くの借入れ申込の中で、もっとも条件が良いと思われるところを選んで融資を行えばよかったのでした。

高度成長期は、現代の日本を代表するような有力メーカーが急成長していた時期です。銀行の貸出先もメーカー、その中でもいわゆる重厚長大型の産業が優先されていました。また、70年代以降は決して好調ではなかったのですが、伝統のある繊維産業などもまだまだ大切な貸出先とされていました。逆に、新しいサービス産業や流通業などの優先順位は低かったと思います。
つまり、産業の将来性や成長性を審査して融資を行うというよりも、高度成長とそれに続く時代の中でお得意様だったところ、すでに安定していた企業に優先的に融資を行うのが当時の銀行のスタンスだったわけです。
また、常に資金需要は超過の状態にあり、規制金利で利益も確保されていましたので、銀行の経営としてはある意味非常に楽な時代だったともいえます。

業態内での規制された競争

パラダイムが変わると、当初の環境の下では存在意義があって、例えば成長促進的な政策であっても、それとは異なる環境の下で実施されたならば、逆機能的な効果を持つことになり、むしろ成長抑制的なものに、あるいは既得権益者の利益を守るだけのものに転じてしまうことはよくあることである。
戦後日本における最優先課題は、壊滅状態にあった産業に対して充分な資金を投入して一刻も早く立て直すことであり、そのためには全国津々浦々から、小口資金をまんべんなく大量に吸収することが強く求められた。
当時の銀行で重要な業務は、資金をいかに集めるかということでした。個人の預貯金、各種法人の運用資金など様々ありますが、銀行員のかなり多くはこの資金集めの業務に従事していました。護送船団行政が機能していた時代ですので、規制金利下で一行だけが飛び抜けて有利な商品をつくるわけにもいきません。また、業界全体でも、地銀など地域に密着した金融機関が集めた資金がコール市場に出され、常に貸出原資が不足気味であった都銀はそこで資金を調達し、企業向けに融資する…というような役割分担もできていました。
しかしながら、主戦場が資金集めだといっても、金融機関同士が業態の壁を超えて競争するようなことはなく、地銀は地銀同士、都銀は都銀同士、信託銀は信託銀同士…というそれぞれの業態の枠の中だけでの厳しい競争が行われていたのです。もちろん、行政当局がそのように棲みわけを指導していたということが大きいのですが。
「貸し手市場」の時代は金融業界、特に銀行にとってはもっとも安定し、平和で繁栄した時代といえるでしょう。それを支えたのは、金融と産業をコントロールしながら順調に発展させたいと考えた国による規制行政だったということになります。

新卒採用が中心の安定した時代

安定した時代に求められた人材は、やはり決められたことをきちんと遂行するゼネラリスト的な人材だったと思います。また、先ほど述べましたように銀行員のほとんどは預貯金集めに従事していたわけですので、預貯金集めに係る創意工夫、努力は行っても、いわゆる創造的な仕事はあまり必要なかったのも事実です。
採用は基本的に新卒採用。途中で転職を考える人もほとんどいませんでしたので、日系の金融機関では中途採用もほとんどなかったのではないでしょうか。
例外としては、為替ディーラーなどの職種や外資系銀行などに勤務していた人の場合、一部動きがあったかもしれません。しかし、それもごく稀だったと思います。

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