プラザ合意(1985年)によって急速な円高が進行し、ドル円レートは1年でほぼ半分に下落しました。日本の輸出産業は大きな打撃を受け、ここにいわゆる円高不況が発生したわけです。(しかしながら本当に大きな打撃・円高不況であったのかはやや疑問、この円高というのがその後ずっとトラウマとなる。)一般的には、この時期に日本銀行が景気回復のためにとった低金利政策、金融緩和によってバブル景気がスタートしたと言われています。
しかし、実はもっと以前からバブルは芽生えていたのだと私は思います。
前の章では、戦後の日本は一貫して資金不足だったと申し上げました。でも、オイルショックの70年代を乗り越えて80年代に入る頃になりますと、貿易摩擦が頻繁に起こるほど輸出は好調。日本全体の黒字が続いたことによって、次第に産業界の資金不足は解消していったのです。また、ファイナンス手法も多様化し、国内外の資本市場から直接金融によって資金を調達する企業も増えてきました。
これが何を意味するかといいますと、金融界にとっては「貸し手市場」だったものが「借り手市場」になったということです。それまでの借りたい企業がいくらでもあった状態から、積極的に借り手を捜さないといけなくなってきた、良い企業ほど銀行借入を必要としなくなってきたのです。場合によっては、直接金融で調達した資金を使って銀行からの借入金を前倒しで返済する企業まで出てきたわけです。
そのため、80年代初頭にはすでに、貸出先のなくなった銀行の資金が不動産や株に向かうといった状況が出現していました。日銀の低金利政策がこの勢いに拍車をかけたのは言うまでもありませんが、投機的な資産に資金が向かう構造的なバブルの下地は、日本経済の成熟の結果としてすでに用意されていたものだと思うのです。
80年代後半の金融業界は、とにかくバブルに乗り遅れまいと、銀行も証券会社も保険会社もひたすら投資案件を探していました。産業界への貸出が細ってきていた背景がありますので、「提案型融資」と称して遊休土地などにビルを建てて運用する…といったプロジェクトも多く見られました。(相続税対策などと称して)安定した企業への融資ではありませんから、本来、審査はそれまで以上に厳密になされなければならなかったのですが、ほとんどの場合、担保さえあれば貸し出すという状態だったと思います。これは「担保融資」と言われました。「土地は必ず値上がりする」という土地神話が担保融資を裏づけしていました。しかし、後になってその裏づけにまったく意味がなかったことに気づかされるのは言うまでもありません。
では、このバブル景気の過熱を防ぐことはできたのでしょうか。後知恵かもしれませんが、国内の融資案件が減ってきた時に、もっと海外に目を向けていたら違っていたのかな…と思うこともあります。
当時、ソニーや松下などの有力企業がアメリカでM&Aを行いました。また三菱地所がロックフェラー・センターを買収した例もあります。しかし、本格的に海外の企業に融資を行った銀行はあまりなかったのではないでしょうか。バブル崩壊
後に、それまで横並びで海外支店、駐在員事務所を出していた金融機関は一斉に撤退を致しました。もちろん、当局の規制をはじめハードルは多くあったと思いますが、いち早く国際化を進め世界の市場で競争することにより、ノウハウ等習得できたとすれば、後の「失われた10年」をもっと違う10年にすることができた可能性は少なからずあるような気がします。
このバブル期は、各金融機関とも非常に多くの業務に対応する必要がありましたので、新卒を大量に採用したのが特徴です。社内の教育としてはゼネラリストを養成するということであって、質的にはそれ以前の時代の採用方針とそれほど変わってはいなかったのではないでしょうか。デリバティブなどハイテク商品の開発要員にということで、理工系の学生や大学院生を採用する金融機関も増え話題にもなりました。しかし、必ずしも充分にその特性が生かされていたかどうかは疑問です。
中途でのスペシャリスト採用はまだ少なかったと思いますが、正社員だけでは対応できないほど業務量があったので、契約社員やパート、派遣社員など非正社員の導入が始まったのもこのバブル期です。
とはいえ、貿易自由化以降、世界の厳しいマーケットでずっと競争し鍛えられてきた製造業などに比べると、日本の金融業界は規制に守られ競争をしてこなかった分、国際化や多様化が遅れ現在のような厳しい状況に低迷しているものと考えられます。それは戦略なき人材採用の面にも現れていたのではないでしょうか。










