小林 至
プロフィール
1968年東京生まれ。東京大学経済学部卒業後、練習生を経てドラフト8位で千葉ロッテマリーンズに入団。退団後、渡米し、コロンビア大学経営大学院へ。修了後、フロリダのテレビ局に勤務。現在は江戸川大学教授、福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役。
ご存知のとおり、甲子園に出場するか、大学や社会人野球で活躍するなどして、プロのスカウトの目にとまらないとプロ野球選手への道は開けない。ところが、小林氏の身長は175センチ。投手として素質に恵まれているほうではない。そこで、東大の野球部ならエースになれる、東京六大学で結果を出せば、ドラフトで指名されるかもしれないと考えた。冒頭の言葉は、小林氏がロッテへ入団する際に話題となった。
だが、小林氏によると、これはマスコミの作り話だという。
ただし、試合に出たい、願わくば、スターの予備軍が集結する大学野球の最高峰である東京六大学でやりたい、そのためには東大だ、と考えたのはどうやら事実のようだ。
結果的にはそれを実現させ、最終的には最高峰であるプロ野球の世界にまで到達することができた。
現役を退いてからは、アメリカの名門大学であるコロンビア大学へ留学している。東大からコロンビア、申し分のない学歴だ。
だが、子どものころから秀才であったわけではない。高校受験では、国立学芸大学付属高校と私立海城高校を「冷やかしで」受験し、失敗している。内申書重視の「神奈川方式」により県立多摩高校へ進学するが、成績は良くなかった。「生物、化学、物理、地学の理科4科目全てにおいて、赤座布団(10段階評価の3以下)を達成」したほどだ。
状況が一変したのは浪人時代。「反吐を吐くほどの勉強。恐らく当時、日本一勉強した」という。通っていた予備校始まって以来といわれるほど、成績は急上昇した。
現在は、江戸川大学の教授として教鞭をとるかたわら、福岡ソフトバンクホークスの取締役として経営に関わっている。これも、日本のプロ野球界を改革したいという強い思いが現職へと導いた。
冷静な状況判断と戦略的思考、それを実現させるための情熱、そして努力、これらが伴って初めて物事は成就する。まさしくそれを実証してきた人生といえるだろう。
今回はその小林氏にそれぞれの時代を振り返っていただいた。
若いころの一時期、必死に勉強したり、働いたりすることの重要性を説く人がいる。若いときは体力もあり、少々の無理もきく。まるでスポンジが水を吸うかのごとく、知識や技術を会得できるからだ。
このときの努力がその後の人生を決めることも珍しくない。小林氏の場合、それは大学受験に失敗して、浪人しているときに起こった。
「本気で勉強をしましたし、勉強のみの生活も初めてでした。なぜ東大かって、野球をやりたいというのもありましたが、せっかく勉強するなら、その道の頂点である東大を目標にしようという、そのくらいの考えで、本気で合格するとは思っていませんでした。なにせ、勉強開始時点では、偏差値40台からの挑戦でしたから。
あのとき、なんであんなに気合を入れることが出来たのか。振り返ると、悔しかったのだと思います。高校時代はレギュラーにもなれず、女性にももてなかった、東大へ行けば、そんな無念を晴らせるのではないかということですね。
受験科目の社会では地理を選択しました。1年で準備できるのは地理しかない、と聞いてそうしたのですが、高校時代、地理は勉強したことがなかったものですから、予備校の先生に聞きにいきました。そうしたら、予習に時間をかけて、復習は夏にまとめてやれば合格に足る学力は身につくとアドバイスしてくれたのです。これはどの先生からも言われました。そこで、授業時間の3倍の時間を予習に割きました。
予備校のカリキュラムは良く出来ているのですね。先生のアドバイスに忠実に従って勉強したら、夏には東大の合格判定でAが出たのです。その後は、模擬試験の成績優秀者の常連となりました。努力が結果に結びついたこの経験は、後のあらゆる場面で自分を励ましてくれる、本当に大きな出来事でした。
ただ、実際は勉強ばかりの生活がいやでいやで仕方がなく、葛藤はありました。それでも、今やらなければいつやるのだと思い、苦しくても1年だけはやるという覚悟を決めました。
実は、高校時代、野球部の練習をよくサボっていました。先輩からの?可愛がり?、つまり殴られることもありましたし、練習もつらかった。学校を休むこともありました。そんな中途半端な自分自身を変えたいという思いがマグマのように溜まっていたのだと思います」
受験の結果、東大に見事合格した。当初の目的どおり、東大野球部に入部する。全国には文武両道の高校が数多くあり、東大野球部とはいえ、ある程度のレベルの選手が集まっていた。
ところが、在学中に70連敗という連敗記録を作ってしまう。ただし、4年の秋季シーズンにおける小林氏本人の防御率(注1)は2点台だった。プロに進む選手がいる早稲田や明治、法政といった大学を相手にした結果としては、決して悪くはない。
「(東大の野球部員は)思った以上に上手いと思いました。軽い衝撃でもありました。ただ高校のときの自分と違うのは、サボることもなく、必死で野球に取り組んだことです。予備校で、努力をすれば成果が出るということを実感していたのが大きかったのだと思うのですが、もうひとつ、(他の大学にいる)高校時代に憧れたスターたちと同じ土俵で勝負出来るというのは、大変なやりがいでした。
4年生になっても、プロ野球が頭をよぎったことはありませんでした。大学を出ても野球がやれればよかったのです。だから、(就職は)社会人野球で、試合に出られるところが希望でした。
それがどうしてプロ野球になったかって、奇跡としか言いようがありません。4年生になり、進路を聞かれるたびに、『プロに行きたい』と言っていたのは確かですが、まさかそれが実現するとは思ってませんでした。
ただ、振り返ってみると、東大でエースにもなり、スター予備軍と真剣勝負をするまでになれた、つまり自己実現できたのです。とても入れないと思った東大にも合格できた。予備校でも東大でも奇跡的な体験をしているわけです。どこかで自分の可能性を感じていたのかもしれません。
そんな前向き思考が運を呼び寄せたのかもしれません。
そのころの東大野球部は連敗記録を更新中で、NHKがドキュメンタリー番組にするほど注目されていました。取材に来る人も多く、東大だからバカにされているようで、悔しさもあり、『プロに行きたい』と誰彼なく吹聴していたら、その話がまわりまわって(ロッテの当時の監督である)金田さんの耳に入り、テストを受けさせてもらい、本当にプロ野球選手になれたのです。
金田監督からは『君の目を見て採った。ひょっとしたら1軍でひとりのバッターくらいは抑えられるかなと思った』と言われました」
- 注1 :
- 投手が1試合(9回)を何点に抑えられるかを表す数字。投手の能力を評価するときに用いる。