“世間を見る窓”としてのSNS(※)は、その景色を大きく変え始めている。

2020年前半は、複数のSNSが多くのアクティブユーザーを獲得した期間になった。原因は、皆さんもご存じの通り、新型コロナウイルスだ。Twitterはもちろん、InstagramやLINEも、利用者数を大きく伸ばした。

私も外出自粛と自宅勤務の影響で、SNSを見る時間が増えた。しかし、どこにも出かけられなかったお盆を超えた頃から、少しずつ周りでSNSをやめたり、更新しなくなったりする友人が増えた。

ここ数ヶ月のSNSは、賑やかというよりは物騒、あるいは危うい空気であったように思う。この空気感は一体なんだろう。実際に複数人の友人が周りでSNSの使い方を変えていたので、話を聞くことにした。

「私、SNSやめます」。その背景にある、環境の変化

以前は1日に1度はTwitterで見かけていたAちゃんは、秋頃から突然Twitterに現れなくなった。理由を聞くと、「不特定多数に共有しづらい日常が増えたから」という。

Aちゃんは語る。

「今回のコロナに対しての意識って本当に人によってバラバラで。ちょっとした会合をすること、外食をすること、小旅行をすることが、人によっては『なんでこんな時に?』って軽蔑する人もいるだろうなと思って、簡単にはSNSにあげられなくなった。そのうち全然使わなくなっちゃった。見てはいるけどね」

“外出自粛”と“GoToキャンペーン”に代表されるように、私達はこの1年、感染予防のために行動を制限される一方で、経済のために行動を促されたりもして、どのように行動するのが正解なのか手探りのまま過ごした。そのような状況の中で、自分の暮らしをオープンにすることはリスクの高い行為だったのだろうと思う。実際、SNSでの投稿に気後れする人も多いようだ。

SNSを活発に利用している人も、すっかり外出先のできごとの投稿を控え、家で何かをしている投稿が増えている。しかし、そんな投稿に心を痛めている人もいるのだ。ひとり暮らしのBちゃんは、完全にどのSNSも使うのをやめてしまったという。

「お取り寄せとか、家の中で楽しいこととか、全部家に自分以外の誰かがいる人だからこそ投稿できるものが多くて。在宅勤務になってから、仕事以外で誰とも話さなくなっちゃって、そういう投稿を見ているとすごく孤独を感じて。見てられなくなったんだよね」

さらにBちゃんが「キラキラ投稿って、『別にそういうことする友だちいなくていいや』って思えるんだけど、家での温かい投稿って『自分にはそういう投稿を一緒にしてくれる人いないんだ』と思えて苦しいのよ」と言っていたのを強く覚えている。

同様にCちゃんも「投稿することがないし、投稿することがない毎日に焦るのも嫌になった」という理由でSNS利用をやめた。

コロナで暮らしが変わり、「公」と「私」の意識が変わった

コロナ禍によって変わったものに、「公と私」の意識の変化があるように思う。昔は、公に対して、自分の毎日を気軽に共有しても何の問題もなく、むしろエンタメとして消費されたが、今、公に対して毎日を共有することは、“検閲”されるような感覚を覚える。

だからこそ、「公」でできることは限定され、どんどん周囲の暮らしぶりが見えなくなっている現象が起こっているのではないだろうか。

そして膨れ上がった「私」がとても重視されるようになっている。周囲にどう見られたいかという“公”的な自分よりも、自分がどうありたいかという“私”的な自分が重要視され始めている。

そして、それが心地よい人もいる一方で、“私的な基準”“私的な人間関係”“私的な毎日”が重視される傾向に、気持ちが追いついていない人もいるのではないだろうか。

公の世界では、“検閲”がはびこり、共有されるものは限定されていく。私の世界は膨張し、自分らしさを大切にする時代が来ている一方で、新たな私的空間で“充実すべき”重圧が誕生し始めている。

実際に私も、自分のTwitterアカウントで投稿する内容は随分精査するようになり、代わりに、より私的な鍵アカウントやInstagramの”親しい友達”の利用が増えた。

以前は、”新たな刺激をくれる新しい友人”と数多く出会っている人を羨ましく思うこともあったが、今はよっぽど、毎日の暮らしを楽しく過ごしてくれる友人や恋人がいる人の方がずっと羨ましい。

変化は痛む。けれどその痛みに人生を蝕まれないために

時代は変わる。生活は、変わりつつある。それに合わせて、思想も変化し始めている。

私もコロナが蔓延し始めた当初は、ただ日常を生きているだけで心が沈んでいくような気持ちになっていたが、最近はこの“あたらしい生活における公私”との付き合い方を学び始めている。

まず、以前よりコンテンツに没頭するようになった。マンガや映画、小説、ゲーム。そうやって、“公私”問わず自分の毎日と関係のないものに没頭することで、“自分の人生”に頭を悩ませることも忘れて、心の散歩ができるようになった。

また、“私的”が拡張するにともなって、以前は仕事の話や飲み会の席でしか話さなかった友だちと、もう少しプライベートに踏み込んだ話を積極的にするようになった。恋人は、しばしば家族と電話している。

さらに、私の周りではペットを飼い始めた人も多いし、恋人はもちろん、気の合う友だちと住み始めた人もいる。私的な時間が拡張されていくことで、身近な関係性や環境を見直していく人は増えるのではないかと思う。

公と私のバランスが変わったことで、SNSの活用方法も変わりつつある。

自宅という小さな部屋に閉じ込められた私達の中には、その、小さなタイムラインが世界を見渡す窓に見えている人もいるかもしれない。しかし、その窓が見せる景色は、少しずつ要素を変化させているのである。

だからこそ、ときには窓を閉めたり、あるいは窓以外にも世界を見る方法を見つけたり、付き合い方を変える時が来ているのだ。あくまで私の人生の主体は私で、いつだって世界は私の心持ち次第で可変なのである。

もう昔のように個人的な毎日を公に向けてカジュアルに発信することはないかもしれない。友人とはクローズドなSNSでのやり取りが増えるかもしれない。けれどそれも、新しい公私が形作られる中での、私の新たなSNSとの向き合い方なのである。

新しい“公私”の中で、多くの人が、自分にとって心地よい、“世の中とつながる窓”との付き合い方を見つけることを願っている。オンラインでつながりつくして生きてきた私達にとって、オンラインのつながりは、人生の大きな一部分であることには変わりないのだから。

(※)正しくはソーシャルメディアだが、ここではわかりやすくSNSと表記する。

この記事を書いた人

りょかち

りょかち

1992年、京都府生まれ。IT企業の社員として働く傍ら、通称「自撮ラー」を名乗り、SNSに自撮りをアップし続ける。若者文化やセルフィーアプリに関心を持ち、自撮りをはじめとするインターネット文化についての取材も多数受ける。著書に『インカメ越しのネット世界』(幻冬舎)がある。

Twitter:@ryokachii