ある男性社員をめぐる給湯室での修羅場

四半世紀におよび会社員生活において、職場で同僚間の怨念が爆発した場面に遭遇したことが一度だけある。そのとき僕は20代後半で(つまり20数年前)、たまたま当時勤めていた会社の東京営業所でのことだ。

同僚との打合せが終わって、馬鹿話をしているときである。

「あんたがいなければ!」

という女性の叫び声が営業所内に響きわたった。声は給湯コーナーから聞こえた。

「何事!」

僕らが駆け付けると、そこは、女性社員が別の女性社員に熱湯をかけようとして、しくじり、双方、泣き崩れて座り込むという修羅場。とあるイケメンをめぐって、双方が嫉妬と憎悪を募らせた末の出来事であった。愛の不時着である

幸い怪我人はなく終わったが、彼女たちは事後、会社内で腫れ物のように扱われることになってしまった。「仕事ができる人たちなのに、なぜあのような短絡的な行動に……」という疑問が常に付きまとったのを今でもよく覚えている。

原因となったイケメンに、まったく非はなく、そもそも当該2人の女性のことなどアウトオブ眼中で、まったく別の女性と結ばれた。憎しみの無駄遣いであった。悲しかった。

「職場のムカつくヤツ問題」にどう対処すべきか

僕らは職場における憎悪をどう解消すればいいのか。これは社会で働く僕らにとって非常に大きなテーマである。なぜなら、僕らは社会人や労働者である前に、血の通った感情のある一人の人間だからだ。

人が集まれば、中にはムカつくヤツがいるし憎悪も生まれる。職場も例外ではない。ムカつく上司もいれば、憎たらしい同期もいるだろう。

どれだけムカついて憎んでも、憎悪の対象はこちらの感情に関係なく明日も同じように出勤する。憎らしい笑顔を振りまく。さらにムカつく。蓄積される憎悪。

ネガティブな感情をなんとかしなければ、最悪、先述の給湯コーナーでの修羅場のように大爆発してしまう。仕事やキャリア、人間関係、会社自体を木端微塵に破壊してしまう

残念ながら憎悪の対象である人物が、ある日突然いいヤツになる、なんてことはありえない。つまり僕らは憎しみを自分でなんとかしなければならない。心のゴミ処理機で浄化していかなければならないのだ。

僕がデスノートを書くようになったきっかけ

若い頃、憎悪問題について真剣に悩んでいた僕は、職場でムカついたことがあると、即、ムカつきの元凶人物の名前を、罪状とともに手帳の後ろにある方眼ノート部分にメモしていた。

ある日のことだ。当時の上司から与えられた仕事(ノルマ)を〆切前に終わらせると、「簡単な仕事だからな」とさらにタスクが追加された。余裕などない。ないから闇雲に頑張っただけだ。その結果、〆切前に終わったにすぎない。

追加分の仕事は評価されなかったどころか、逆に「普段から全力で取り組まない奴はダメ」という謎のマイナス評価をされた。僕はそのとき「○○課長は人をマトモに評価をできない。マジでクソ。心臓発作でオナシャス」と手帳に書き記した。それが「デスノート」のはじまりである。

デスノートには2つの機能がある

デスノートは、著名漫画のアレのように、対象の人物を思い通りに操って死にいたらしめる機能はないが、2つの機能が備わっていた。ひとつは、相手の罪を定義して明確にすること。もうひとつは客観的な視点になって冷静になれることである。

上司や取引先との付き合いのなかで、尊厳を踏みにじられるような屈辱を受けたときに憎悪は生まれる。憎悪はとても強い感情なので、火に油をそそぐように、熱くなりすぎてしまいがちだ。給湯室でバトルした女性社員のように、実際には双方ともに意中の男性の気持ちをゲットしていないのに、嫉妬と憎悪の炎をフルパワーで燃え上がらせ、見境なくバトルに至ってしまう。

憎しみという感情の中にあっても、冷静さはあってほしい。彼女たちのうち、どちらかが、デスノートを書いて、相手への憎しみをきちんと定義して、冷静になれていれば、あの無駄な修羅場は避けられたのではないか、今でもそう思うばかりだ。

デスノートを書いているうちに自分を客観視できるようになる。端的にいって、ノートや手帳に怨念をもって名前や罪状を書きつけている姿は目をそむけたくなるほど薄気味悪く、醜い。書いているとき、ふと我にかえると、その醜悪さに気がつくのだ。

するとどうだろう。憎悪そのものは消えてなくならないが、憎悪をノートしている醜悪な己の姿を意識することによって、憎悪しつつも、憎悪で狂わない自分を取り戻せるようになるのである。

僕は、デスノートを記すことによって、腹のなかにマグマのような憎悪の炎を燃やしつつも、憎悪に狂っている己の醜さを自覚することができた。そして、憎悪を憎悪として割り切って、仕事に向かうことができた。ムカつくけれども、ムカついたら負けという悟りに至たったわけである。

野球にたとえると中年男性みたいでイヤだけれども、「プロ野球選手が草野球選手に本気になるのがダサい」みたいな感じといえばおわかりいただけるのではないだろうか。

デスノートには致命的な欠点があった

デスノートでマイナスの感情との付き合い方がゲットできる。一方で、デスノートには痕跡が残ってしまうという致命的な欠陥もある。もし、デスノートの存在がそこに氏名を記された当人に知られたら最悪の展開になるだろう。

僕は、手帳を落として、デスノートに氏名を書いた当の本人に拾って届けられたことがある。

彼が、僕のデスノート記述を見たかは定かではない。だが、落ちていた手帳を僕のものだと確認するためには、中を見なければならない。最悪なことに、持ち主の氏名や住所を記載するプロフィール頁は、デスノート頁のすぐ後に設置されているため、頁をめくっている途中で、デスノート記述を目撃していても何らおかしくはなかった。

その人が僕の手帳にしたためられたデスノート記述を見つけたのか、わからないままである。

ただ、それ以降、彼は明らかに僕との距離を取るようになった。僕が退職するまで、どことなく恐怖に怯えているような姿勢を崩さなかった。誰かから猛烈に憎まれていることを知ったら人間は普通ではいられない。こういう抑止力としてのデスノートについては今後の研究結果が待たれるところである。

「罪を憎んで人を憎まず」は無理だった…

デスノートは、氏名と罪状を記しているので露見する可能性は否めない。決定的な欠陥だ。僕らは、古来より言われる「罪を憎んで人を憎まず」という格言に立ち返るべきだろう。憎しみを人ではなく罪や行いに帰属させるのである。

僕は先述の失敗と、人ではなく罪を憎むというスタンスに立ち返り、デスノートに氏名を書かないようにした。氏名を書かなければ発覚する可能性は低くなり、そのうえ、人と罪を分離することによって、怨念が小さくなる、という効果をも期待していた。

結果からいえば無惨であった。職場の上司から理不尽な仕打ちを受けた恨みを、氏名を抜きにして罪状を手帳にツラツラ書きつづってみたところ、かえって罪状が強調されてしまい、記載されていないはずの顔と名前が頭から離れなくなった。その結果、気持ちが落ち着かなくなり、業務に集中できない、無関係の人にきつく当たってしまうなどの、弊害が出てきたのだ。

デスノートに氏名を記載することには、憎悪の爆発をおさえる効果があると僕は知った。憎い上司の名前を書いていると、「いろいろムカつくけれど、あいつじゃな……」というあきらめの感情がストッパーとなり憎悪の炎を鎮火していたのだ。結局のところ、名前と罪を分離することはできないのである。それは人は人と罪を憎まずにはいられないということである。

僕が到達した「究極のデスノート」とは?

しかし、上司や同僚に対する憎しみを募らせてばかりでは、仕事に悪影響が出るのは必至。健康をそこなうこともある。僕らはどうすればいいのか。

デスノートを書けば、デトックス効果で怒りは鎮まってくる。憎い上司の名前をかきなぐれば、気分的にすっきりする。しかし、先述のとおり具体的な名前および罪状を手帳に記すことは発覚のリスクがある

その結果、僕が到達した究極のデスノートは、隠れ切支丹式デスノートである。幕府や時の権力者に切支丹であることがバレないように、先人たちがさまざまな工夫をしたことは小中学校の歴史で学んだはずである。つまり、僕らもデスノートをバレないように書けばいいのである。具体的な氏名や罪状を記すのではなく、己でしかわからない暗号や隠語で、上司や同僚の悪口を書き連ねることで、発覚を恐れることなく、恨みの炎の鎮火効果を得られる。

具体例としては「○○部長に、またも意地悪をされた。許せない」を「クソBからeasy割を受領。EURO内」といった具体に隠語で記載する。こうすれば、手帳を落としても発覚する恐れはない。「easy割」「EURO内」から「意地悪」「許せない」という意味を引き出すことは超人的言語感覚を有する天才と書いた当人以外には不可能である。

まとめ

切支丹から学んだ隠語デスノートを駆使して、僕は、上司や同僚に対する恨みを自分の中で消化することができた。はっきりいって隠語をつかって書くことは面倒くさい。面倒くさい気持ちを抱えながら、好きでもない人物のことについて書くのは苦痛である。「なんで嫌いな奴のためにこんな苦労をしなければならないのか」とアホらしくなってくる。

そのアホらしさが最終的には「ムカつく上司や同僚を恨んでも何もならない」という無常観に変化して、憎悪と行動を分離できる人間になるのである。

僕はデスノートを通じて、表面上は上司や同僚を恨まない人間へと成長することができた。もしかしたら僕自身が管理職になって、怨む側から恨まれる側へ役割が変わっただけかもしれないが……。

上司や同僚、仕事関係の人間関係に対して、ムカついて悪口を言いたくなるマインドからは逃げられない。だって人間だもの。そのネガティブな気持ちを処理する方法を自分なりに見つけることが大事なのである。

2021年も頑張ろう。(所要時間55分)

この記事を書いた人

フミコフミオ

フミコフミオ

海辺の町で働く不惑の会社員。普通の人の働き方や飲食業や給食について日々考えている。現在の立場は営業部長。90年代末からWeb日記で恥を綴り続けて20年弱、主戦場は、はてなブログ。

ブログ:Everything you've ever Dreamed

Twitter:@Delete_All