なんだかんだ言って私は仕事が好きだ。

私の仕事の半分はエッセイやコラムを書くことで、もう半分はもぐら会という集まりを運営することだ。 

私自身は学者でもなければビジネスの成功者でもなく、ざっくりと分類すると専門分野のない何者でもない人だ。でもだからこそ、そんな私が毎日の中で考えたことや発見したことを文章に書くと、奇特な人が私と同じ目線でそれを読んでくれ、面白がってくれたり、驚いてくれたりする。

また、このうちのもっと奇特な人たちが、もぐら会という場所に集まってくれている。もぐら会は、世の中にはこういうことが必要なんじゃないか、と私が思うことを日々コツコツ実験している場所だ。

売れない物書きの仕事は虚しい。でも希望を失ってはいない

物書きとはいえ、残念ながらベストセラーを出しているわけでもないし、世の中には私という物書きが存在していることをまったく知らない人のほうが圧倒的に多い。そんな私に依頼される原稿料も当然ながら高くないので、食べていくためにはたくさん書かねばならない。

一生懸命頭をひねって、今、どうしてもこれを書かねばならないと思うことを書いても、多くは公開された直後にその他の膨大な情報に埋もれ、人の目に留まることなくインターネットの深海に沈んでいく。

そういうことが続くと落ち込むし、世の中を呪いかけたりもするけれど、それでもごくたまに当たる。当たるって言っても『鬼滅の刃』みたいな大ヒットとは程遠い。けれども、たとえばTwitterで感想を見かけたり、イベントに来てくれる人と話したりすると、私が作ったものが、たしかに誰かの心に届いたのだと実感でき、だからシビアな状況の中でもなんとか希望を失わずに続けることができている。

不安定な仕事を「好きだ」と思える理由

加えて、幸運なことに私の仕事はいつも私の関心事の延長線上にある。これがもし、全然やりたくないこと、興味のないことをやっていたとしたら、とてもじゃないけど続けていられないだろうと思う。

実入りは悪く、不安定。ひとつ間違ったことを言おうものならボッコボコに叩かれる。また叩かれることそのものより、無自覚な自分の無知や醜悪な心が、無自覚なまま表出してしまうことが本当に恥ずかしく、恐ろしい。

それでも、やっぱり私は私の関心事を探求したいという気持ちがあるし、その過程で生まれるものが幸運にも商品になり、誰かが受け止めてくれる。受け止めてくれた誰かが仲間になってくれ、さらに探求が続けられる。このようなサイクルが奇跡的に成り立っていて、その間には一つも無駄なことはないと思えるため、私は今やらせてもらえている仕事が本当に好きだと思う。

「好きだ」と思える仕事にたどり着くまで

仕事が好きだと言えるあなたは幸運なだけ、そう言われればその通りだ。あなたも好きなこと、楽しいことを仕事にすればいいじゃない、と言い返せるほど世の中が優しくないことはよく知っている。

私は10代のうちに専業主婦として子どもを生んでいて、当然ながら高卒で、その後色々あって初めて切実に働かねばならなくなったのは20代後半だった。

正攻法で就職活動をしようにも履歴書に書けることは何もなく、スカスカの履歴書で受かる場所で働いたとしても子どもを抱え、貧困に陥ることは目に見えていたので、それなら人にたくさん会って、私という人間を知ってもらって、履歴書には載らない私の能力を必要としてくれる人を探すという、ギャンブルのような就活をやったのだった。そうするよりほかなかったからだ。

もちろん何度も痛い目を見て、しかしそれ以上に親切な人にも多く出会えて、軌道修正を重ねながら、もともとゼロだったパズルのピースを一つずつ集めるようにして、今の状態にたどり着いた。

やりがいだけで仕事を選べるほど社会は甘くない

逆にもし、私にもっとたくさんの選択肢と、たくさんの可能性があったとしたら。すでにいくつかのピースを所収していたとしたら。私はどんな風に仕事をしているだろう、と考えてみると、もしかしたらそのほうが途方に暮れていたかもしれないと思う。

仕事や働き方に悩む友人たち、特に女性たちの話を聞いていると、仕事を自分のやりがいや充足だけで選べない最大の理由の一つに、妊娠、出産という大きな問題があることがわかる。妊娠、出産で一時的にキャリアが途絶える間にも収入が保証されるかどうか。仕事復帰した際に自分のポジションがあるかどうか。子育てをしながら働きやすい職場かどうか。仕事や働き方を選ぶとき、そういうことを一切度外視して働き方を選べるほど社会は成熟していない。

選択に失敗すればキャリアを諦めなければいけなくなるかもしれない、下手すれば食べていけなくなるかもしれない。もし当時の私に、これから子どもを生み育てるかもしれないという可能性があったら。またそんなとき、すでに目の前に、とりあえずは安定した収入が保証されている仕事があったとしたら。たとえその仕事が死ぬほど嫌いでも、転職を選ぶかどうかは躊躇してしまうかもしれない。

「仕事が好き」と言えることを望むのは贅沢なのか

日本では少子高齢化とともに労働人口の減少が深刻化していて、今後、定年はどんどん引き上げられていくことが既定路線だ。一方、そんな中にありながら私の身の回りの、特にアラフォー世代には転職活動に難航している人が少なくない。この背景には、正規雇用が減って非正規雇用が増えていること、また正規雇用に求められる能力が高度化していることなどの理由があるという。

安心して稼ぎ、生きていくことそのものがどんどん難しくなる中で、さらに仕事にやりがいや充足を求めること、仕事が好きだと言える状態を望むのは、贅沢なことなのだろうか

いや、決してそうではないと思わされることがあった。

転職して「言葉」を取り戻した友人の話

1年以上前から定期的に話している友人が、先日、突如別人のように変貌を遂げていた。それまでの彼女は、優しさもあってかとても慎重に言葉を選びながら話す人で、ときには言いたいことを飲み込んで、言わないですませているような様子を見せることもあった。そんな彼女が少し会わない間に、見違えるように伸びやかに、堂々と言葉を発する人になっていたのだ。

一体何があったの、と尋ねると、転職したのだという。それも、もともといた大企業から、小さな福祉系の会社への転職。給料も随分下がったというけれど、それでもその会社には、彼女が良いと信じる価値を、彼女と同じように信じてくれる同僚がいるという。今は少しずつ自分の言葉を取り戻している気がする、と彼女自身が言うのを聞いたとき、はっとした。

私たち大人は、もしかすると寝るより食べるより、家族や恋人、友人と過ごすよりも長い時間を、仕事とともに費やす。だからこそ合わない仕事や職場は、ともすれば自分から言葉を奪ってしまう。言葉は、私たちの人間性の一番コアな部分で、それを、いとも容易く侵食してくるのだ。

私たちは「望まない仕事」が及ぼす影響を軽んじていないか

もしかすると私たちは、望まない仕事が自分に及ぼす影響を軽んじ過ぎているのかもしれないと思う。それは言い換えれば、自分が感じ、考える人間であるということを軽んじているということでもあるかもしれない。

職場が大きかろうが、小さかろうが、本当は私たちが仕事を通じて出会う人達たちは皆、私と同じように感じ、考えることをする人間のはずで、でもより効率よく、より生産性を上げて働くことばかりが疑いようもなく重視される環境の中では、人間同士、そんな当たり前の前提が見えなくなってしまう。それですっかり機械のようになってしまえるのならばむしろそれでも良いのだろうけれど、あいにくそう簡単にもいかない。

ましてや人生100年時代と言われる今、私たちはこれまでの人たちよりももっと長い時間働き続けることになるかもしれない。そうなったとき、私たちの人生の大部分を占める仕事が、私たちの人間性を否定するものであり続けるとしたら、もしかしたらそれは、とても不幸なことなんじゃないだろうか

だからみんな、好きなことを仕事にしよう! なんて乱暴なことを言いたいわけでは決してない。私の場合、好きなことなんてころころ変わる(「愛の不時着」を見終わった直後に主演俳優のファンクラブにまで入ったのに今やその人の名前を思い出せない)し、やりたいことだって、まったく湧いてこないか、もしくは1日に100個くらい湧いてくるかのどちらかで、それもまたあまり当てにはならない。

もちろん、好きなことややりたいことが確立している人はそれを仕事にする方法を考えたらいいと思うけれど、そうではない大多数の人たちがいきなりそれを探そうとしてみても難しい。ましてや、すでに長きにわたり目先の仕事に忙殺されているようなら、本来湧いてきていたはずの「好き」や「やりたい」が、仕事に邪魔なものとして体の奥底に押しやられている可能性だってある。

「幸せな仕事」を見つけるために

じゃあ一体どうしたらいいのか。たとえば一つの基準として、自分が他者とのつながりを最も心地よく感じられることは何かと考えてみたらどうだろう

仕事という経済活動は、そもそも人と人とをつなぐものだ。対価を得られるあらゆる仕事は、必ず何かしら、他者とのつながりの中にある。こういったつながりの向こうに、自分の仕事によって喜ぶ誰かの顔が見えて、そのことで自分が心から充足するかどうか。まずはここに意識を向けてみるといいんじゃないかと思う。

誰の顔も見えてこなかったり、また誰かの顔が見えたとしても、それによって自分がいい気持ちにならなかったりしたら、その仕事はもしかしたらあなたをあまり幸せにしていないかもしれない。

であれば今度は、どんな他者との関わりが自分を本当に充足させるのか、これを探す旅に出る。いや、旅というのは比喩でいきなりバックパッカーになる必要もないのだけど(それでもいいかもしれないけど)、今ある日常の一歩でも外側に出てみるのはどうだろう。新しく知り合う人は、自分に何かしら新しい可能性を見出してくれる。新しくできた大切な人を喜ばせたいと思ったとき、新しい役割だって見つかるかもしれない。

自分を機械のように扱わない人の中で、感じ、考える人間として過ごす。私たちが大人になる中で手放すことを強いられてきた一つ一ひとつを、今度は再び、一つ一ひとつ取り戻していく。そんな嘘みたいなプロセスの中でこそ、長い人生をともにできる幸せな仕事、働き方を、見つけることができるかもしれない。

この記事を書いた人

紫原明子

紫原明子(しはら・あきこ)

作家、エッセイスト。著書に『家族無計画』(朝日出版社)、『りこんのこども』(マガジンハウス)。東洋経済オンライン、クロワッサンweb、BLOGOS等で連載中。

Twitter:@akitect