時には人事担当。時にはフリーのウェブ制作ディレクター。そして時には、“流しのカレー屋”。そんなユニークなトリプルワークを成立させている人がいます。阿部由希奈さんです。

「and CURRY」という屋号で展開するカレーのお仕事は、テレビや雑誌など多くのメディアで取り上げられ、今や阿部さんが作る創作スパイスカレーには長い行列ができます。

すべての始まりは、何気なくアップしたFacebookの投稿でした。そこからどのように「好きなこと」が仕事化し、大きく育ったのでしょうか。そのちょっとマジカルな“旅”の軌跡をたどってみましょう。

はじめは“いいね!”が2~3人つく程度だった

阿部由希奈
阿部由希奈(あべ・ゆきな)。1984年生まれ。フリーで人事職やウェブディレクターの仕事をしながら、「and CURRY」の屋号で「流しのカレー屋」として活動する。その独創的なカレーに注目が集まっている。

阿部さんは現在、業務委託社員として1日4時間・週に2日ほど、ウェブデザイン会社に勤務しています。担当は人事。社員の評価や人材採用などの業務に日々あたっています。

それとは別に、フリーのウェブディレクターとしても仕事をしています。こちらは主にウェブサイトのプランニングやデザインを行っています。

さらに阿部さんには、“3つめの顔”があります。カレー料理人です。

「『and CURRY』という屋号で、主にイベントや飲食店とコラボしてスパイスカレーを作っています。店舗を持たず、様々な場所にフラッと現れるスタイルなので、“流しのカレー屋”と名乗っています(笑)。流しをしていると、いろいろな場所で、たくさんの人に出会えるのがうれしいですね」

流しといっても人気は絶大で、阿部さんが飲食店とのコラボでカレーを作る日は開店前から行列ができ、開店して5分ほどで受付終了となることも少なくありません。イベントでは、2日で1000食ものカレーを売り切ったこともあります。

そんな売れっ子の阿部さんですが、流しのカレー屋としてのキャリアはどのようにして始まったのでしょうか。

「カレーと関わる最初のきっかけは、渋谷にあるネパール料理屋さんのカレーを食べたことです。そこからカレーの魅力にハマり、いろんなカレー屋さんを食べ歩くようになりました。そのうちに、『女性が入りやすいおしゃれなカレー屋さん』が結構あるな、と気付きました。

その頃、正社員として勤めていたベンチャー企業の仕事に余裕があり、何か新しいことを始めたいなと思っていたので、その『女性向けのカレー屋さん』の情報をFacebookに載せ始めたんです。2014年のことでした。ただ反響はほとんどなく、知り合いの何人かが“いいね!”を押してくれる程度でした。

そのうち自作のスパイスカレーを作るようになり、『カレーレシピを自分で作ってみた』的な記事もアップし始めました」

カレーにのめりこみ、“トリプルワーク”を開始

阿部由希奈

カレー投稿を1年ほど続けた頃、決して多くはない反響の中に、阿部さんの運命を変える出来事がありました。

「よく行くたこ焼き屋のおっちゃんが投稿を見てくれて、『そんなにカレーが好きなら、うちの店で出してみれば?』と声を掛けてくれたんです。とはいえ会社勤めがあったので、月に1回だけ、たこ焼き屋の営業がない日曜昼に店を借りて、自作のカレーを出させてもらうことになりました。カレーの作り方は、『東京スパイス番長のスパイスカレー』という本の全48レシピを試作するなどして勉強しました」

ちなみに、阿部さんはどんなカレーを作っているのでしょうか。

「一般的なカレー店では見かけないような食材を組み合わせたスパイスカレーを作っています。たとえば塩昆布と枝豆を合わせたカレー、スイカのキーマカレーなどです。いわゆるカレーらしいカレーではなくても、お作法を守ればカレーらしくなるのがスパイスカレーの魅力ですね」

こうして2015年8月、会社員をしながら、間借りカレー「SUNDAY and CURRY」がスタート。カレーの仕込みは10人前程度から始めたため、開業資金は看板代と食材代、100均のお皿代などの数千円程度だったと言います。

ただ、はじめの数カ月は、お客さんがあまり来なくてカレーを家に持ち帰る日もあったとのことです。

「自分はいったい何をしているんだろうと落ち込むこともありました。それでも続けることができたのは、来てくれるお客さんの存在が大きかったです。自分の作ったものが目の前で美味しいと喜ばれ、お金までいただけるというのが、会社員の身にとってはすごく新鮮で明快に感じました。人事やウェブの仕事では、お客さんから直接そういうフィードバックを受ける機会は少なかったので…。それでカレー作りにどんどんのめり込んでいきました」

そんななか、阿部さんは一つの決断をします。会社員を辞めることです。

「カレーの仕事をもう少し増やしていきたいというのと、いつかはフリーで働いてみたいという思いがあったので、チャレンジしてみることにしました。とはいえカレーだけでは食べていけないので、フリーランスで人事とウェブディレクターをして最低限の収入を得ながらカレーの仕事もするという、今も続けているスタイルを選びました」

阿部さんはもともと人事職の経験がありましたが、この業務委託契約は、たまたま友人の結婚式で意気投合した人の会社で人事職が空いていたため実現したものでした。フリーのウェブディレクターも、これまでの経験と人脈を活かしたものでした。

こうして2016年初頭、阿部さんのユニークなトリプルワーク生活が始まりました。ここから阿部さんの“冒険”は徐々に加速していきます。

縁が縁をよび、テレビで取り上げられる

阿部由希奈さんのカレー
この日、阿部さんが作ってくれたのはチキンカレーとフェンネル(スパイスの一種)とアーモンドのフィッシュカレー。まろやかな口当たりのなかにピリリと存在感を発揮するスパイスが絶妙のアクセントになっています。

「2016年1月、せっかく会社員を辞めたのだからと、カレー業界で有名なナイル善己さんが主催する、約1週間のインドツアーに参加しました。人生初のインドで本場のカレーを毎日食べ歩きつつ、カレー業界周辺の貴重な人脈を得ることができました」

ツアーから帰国後は、月に2~3回のカレー仕事を行う日々が続きました。そんななか、次第にお客さんがじわじわ増えるのが実感できたと言います。その主な要因が、Instagramでした。

「自分でも投稿していましたが、それ以上に大きかったのが、カレーインスタグラマーさんの存在です。彼らが私のカレーを食べて投稿してくれることで、何千ものフォロワーさんがそれを見てくれ、実際に足を運んでくれる人もだんだん増えていきました」

その後2017年1月からは、下北沢の人気カレー店にて、週3回の間借りカレー営業を開始。この話も、カレーで知り合った友人から舞い込んだものでした。結局この間借りカレー営業は3カ月間に及びました。これにより阿部さんの知名度はさらに上がります。

そして2017年の8月、大きなターニングポイントを迎えます。テレビ番組『セブンルール』(カンテレ、フジテレビ系列)への出演でした。

番組ではカレーを愛しすぎてしまったOLとして阿部さんを取り上げ、流しのカレー屋の内幕を紹介。番組出演の反響は、予想を遥かに超えるものだったと言います。

「インスタのフォロワーはもともと1000人くらいでしたが、番組が終わった直後には4000人を超えていました。その後1年弱で8500人にまで増えました。カレーのお仕事依頼も、それまでは知り合いからがほとんどでしたが、テレビ出演後はびっくりするような大企業や百貨店からもいただくようになりました」

こうしてカレー料理人として大きな知名度を得た阿部さん。以降は阿部さんがカレーを作る日は長い行列があたりまえとなり、コラボする相手も多岐にわたるようになりました。

さらにはその後、次なる展開が待っていました。

“かけもち”だからこその独創的スパイスカレー

阿部由希奈

2018年7月、世田谷区にカレー活動の拠点となるキッチン「kitchen and CURRY」を開設。ここをカレーの仕込みの拠点としつつ、週2日ほど“キッチン開放日”を設け、カレーを一般提供しています。キッチンの建物は、和のテイストを基調とした洗練された面持ちが目を惹きますが、この物件も知り合いから紹介を受けたものでした。

そんな阿部さんですが、現在もトリプルワークは続けています。カレーの仕事が多くなったこともあり、休みはほぼゼロだと言います。なぜカレーの仕事に一本化しないのでしょう?

「これは甘いと言われるかもしれませんが、私の場合、専業化してカレーで稼がなくてはいけないとなると、ちょっと守りに入ったり発想が鈍ったりしそうで怖いんです。だからできるだけ好きなカレーを自由に作るためにも、トリプルワークは今後も続けていきたいです」

かけもち仕事をこなす秘訣は?

「すきま時間を有効に使うようにしています。特にSNSは、基本的に移動時間中にやるようにしていますね。投稿用の写真の加工なども、すべて移動中にすませています」

やはり、SNSは重要ですか?

「そうですね。やっぱりSNSがきっかけになることも多いので、そこはコツコツ継続していくことが重要だと思います。Instagramに関しては、“この人は◯◯の人”とパッと見でわかるよう、テーマを絞ることも大切なのかなと。私の場合、カレーと猫に関する投稿に絞っています」

最後に、この先の展望を聞きました。

「今後は地方にもどんどん出かけ、その土地の食材を使ったカレーでスパイスカレーの魅力を地方の方々にも伝え、さらにはそのカレーを東京に持ち帰り、その土地の魅力を東京の人に伝える、という活動をしていきたいです。目標は、47都道府県制覇! まだ6箇所くらいなので、先は長いです(笑)」

まさに屋号の「and CURRY」の通り、さまざまな人たちとの“AND=縁”に導かれるようにして、気づけば未知の世界を歩み始めていた阿部さん。そのちょっと不思議な冒険譚は、まだまだ続くようです。

阿部由希奈(あべ・ゆきな)

1984年生まれ、大阪府出身。フリーで人事職やウェブディレクターの仕事をしながら、「and CURRY」の屋号でカレー料理人として活動。様々なイベントやお店とコラボして個性的な創作スパイスカレーを提供している。2018年7月に、カレー活動の拠点となる「kitchen and CURRY」を開設。週2日ほどを“キッチン開放日”とし、一般のお客にカレーを提供している。

ホームページ:and CURRY

取材・文/田嶋章博(@tajimacho
撮影/奥本昭久(kili office)