内向型の人は、どんな心持ちで社会と接しているのでしょうか。つらい?孤独?寂しい?旅と読書とアートを愛する「筋金入りの内向型」ブロガーのチェコ好きさんが、自身の体験を振り返り、「内向型として生きること」をつづります。

小学校5年生のとき、新しいクラスで私は友達ができなかった。

でも、そのことを特に心配しなければならない事態だとも思わなかった。

私は、休み時間は極めてマイペースに、図書室で好きな本を読んだり、ノートにマンガを描いたりして、一人で遊んでいた。修学旅行などでは班を作らないといけないので、その時はどうしようかなあくらいは考えていたが──まあ何とかなるだろうと、非常にのんびり構えていたのである。

これだけでわかるように、私はいわゆる内向型の人間である。そしてこの気質は変わることなく、内向的なまま会社勤めをしつつ、物書きとしてなんとか31歳までやってきた。以下の文章は、そんな私と似た、内向的でちょっとマイペースな性格を保ったまま社会で働いている人たちへ向けた、メッセージである。

無理やり作った友達といるより一人の時間を楽しみたかった

昔話を続けよう。のんびり構えていた私だったが、風向きが変わったのは、5月の家庭訪問だ。

先生が我が家にやってきて、うちの母に、「娘さんはかなり内向的で、友達作りがうまくいかないようです。休み時間はいつも一人で過ごしています。とても心配です」と告げた(私は隣の部屋にいたのだが、こっそり聞いてしまった)。

先生がとても深刻な様子でそう語るので、母はびっくりしてしまったのか、家庭訪問が終わったあと、一人でしくしくとリビングで泣いていた。それまで友達がいないことを特に問題視していなかった私だったが、泣く母を見て、初めて「友達って、いないとダメなんだ!」と焦ったのである。

そこからは、無我夢中である。ないコミュニケーション能力を総動員し、クラスで流行っているテレビを必死で見て内容を覚えては誰彼かまわず話し掛け、半ば無理やり、クラスに友達を作った。

先生も母も、そんな私を見て少しは安心したのか、以降は通知表でも保護者面談でも、特に何も言われなかった。私のほうも、もう泣く母を見なくていいのだと、ほっと胸をなでおろした。

ただ正直、心は晴れなかった。当時仲良くしてくれた友達には感謝しているが、「無理やり」作った友達なので、それほど気が合うわけでもない。みんなでドロケイをするよりも私は本を読んでいたかったし、テレビの話をするよりも一人でマンガを描いていたかった。学校が、楽しくなかった。

今思うとちょっと意味がわからないが、クラスの集合写真に映りたくなくて、誰かがカメラを構えたときは気づかれないようにそっと姿をくらませたり、シャッターが下りる瞬間を狙ってサッと誰かの背後に回り、影と化すようにしたりしていた(この忍術は、成功することもあれば、ばれて怒られることもあった)。

私はあの時、図書室で過ごす一人の時間を楽しんでいたし、友達ができないまま一人で過ごすことを、惨めだとも悲しいとも思っていなかった。それを、悪気はなかったとはいえ、大人たちによって変えられてしまったことは、ちょっとしたトラウマとして今も残っている。

外向的な性格が重宝される社会で生きること

大勢の人のイラスト

おそらく少なくない人が、「一人」と「孤独」と「寂しい」と「内向的」とを、ちょっと混同している。これらの言葉は確かに近しい関係にはあるが、イコールでつながるわけではない。

「一人」は一人暮らしとか独り身とかの単なる物理的状態だし、「孤独」は本質的にはすべての人間が抱えているもので、誰も逃れることはできないものだ。

「寂しい」は、小学生の時の私のように、一人でいても寂しくないこともあれば、逆にたくさんの人に囲まれながら寂しさを感じている場合もいる。本人の気質やそのときの調子によって、「寂しい」はいくらでも変化する。

そして最後に、「内向的」はもちろん、ただの性格的特徴だ。内向的な性格の人は多くの場合、物理的に一人でいる状態を好むが、それは必ずしも「寂しい」にはつながらない。

それなのに、「孤独」や「寂しい」と結びつけやすいせいか、私の周囲は、一人でいること、内向的な性格であることをなかなか尊重してくれないと感じてしまう。以前、一人旅なのにSNSに写真を上げる人は、本当は誰かと一緒に行きたいのでは、誰かと目の前の光景を共有したいのでは……といぶかしがっている意見を聞いたことがあるが、私から言わせてもらえば、一人旅はやっぱり一人で行きたいのである。

SNSに写真を上げることはあっても、基本的には目の前に現れた風景や景色について、まずは誰とも語らずに一人で考えを巡らせたい。それに、その理屈でいくと、2人で行った旅行の写真をSNSに上げる人は本当はもっとたくさんの人数で賑やかな旅をしたかったのでは……ということになってしまうし、修学旅行や社員旅行の写真をSNSに上げる人はもはや意味が不明だ。

一人で過ごすことは、2人や5人や10人で過ごすことの下位概念ではないのである。

ただ、小学生のときクラスに友達がいなかった私が大人たちに心配されてしまったように、そのことはなかなか理解してもらえない。内向的な性格でいるよりは、外向的な性格でいるほうが、何かと暮らしやすいようにどうしても私には感じられる。

かつて私が事務職として働いていた会社員時代を振り返っても、周囲に関心があって、周りの人間のことをよく観察し、気が利き、空気が読める人のほうが、いろいろな企画の声が掛かりやすく仕事ができる印象を周囲に与えていたと感じる。私はこれらの外向的な性格の特徴を何一つ持ち合わせていないからか、社会人になってからも、上司や同僚に「あなたは周囲と打ち解ける気はあるのか」と何度も苦言を呈された。

なぜこんなふうに外向的な性格の人にとってより暮らしやすい社会になっているのかというと、私が思うに理由はいくつかある。まず、心理療法士で内向型人間の研究を行っているマーティ・O・レイニーの著書『内向型を強みにする』によると、米国では、外向型の特徴を持つ人と内向型の特徴を持つ人の割合は、3:1だという。もちろん、この割合をそのまま日本に持ち込むことは難しいだろうが、「そもそも外向型のほうが、人口として多い」と同書は指摘しているのだ。

時として多数派の価値観で社会が動いてしまうことを、理解はできる。また、これは私の考えだけど、外向型の人は自己開示をすることにあまり抵抗がないように感じる。コミュニティにおいて、「何を考えているのかよくわからないヤツがいる」というのは不安要素だ。たまにあまりにも開けっぴろげに語り過ぎて引かれてしまう人もいるが、それも程度の問題であって、基本的に人はより多くの自己にまつわる情報を開示してくれる人に安心する。

私は自己開示に消極的で、表情も乏しく、コミュニティでなかなか人と打ち解けにくい。こういう人間がいた場合、内向型の子供に「友達を作りなさい」と大人が言うように、社会は不安要素を理解するのではなく、往々にして取り除くほうにより力が働いてしまう。

内向型は、その性格的特徴により、仕事やプライベートの人間関係で悩んでいる。少なくとも、私が知る限りだけでもこうした悩みはよく聞く話だ。しかし、「外向的な性格が原因で悩んでいる」という人には今まで会ったことがないし、話に聞いたこともない。

外向的な性格が求められる場面は何かと多いが、内向的な性格が求められる場は非常にまれだ。さらに、外向的な性格の人は社交にまつわる活動量が多く、知り合いもたくさんいるため、「運」や「縁」に恵まれやすいという話も聞いたことがある。

「人に好かれるだけじゃなく、天まで外向型の味方なのかよ、キーッ!」と思い、この話に私はとても嫉妬した。内向的な性格は、働く上で、生きていく上で、何の強みにもならないというのだろうか?

無理して性格を変えなくても、「自分らしく働く」は実現できた

しかし、「外向型の特徴を持つ人と内向型の特徴を持つ人は3:1」というが、最近、「実は5人以上が集まる場に加わるのは苦手だ……」と告白する人が、私の周りではめずらしくない。これは私が普段接している人に、文章を書くこと、つまり個人作業を仕事や習慣にしている人が多いことも関係しているかもしれない。

上述の告白をした人たちは、私には外向的に見える性格の人たちだ。そういう人たちであっても、人付き合いをするなら少人数でじっくり、という内向型の片鱗があるらしい。またしても私の周辺という狭い観測範囲の話で恐縮だが、「大人数でワイワイやるほうが好き」とあえてたくさんの人で集まるほうを好む人は、むしろ少数派のようにも思えてくる。

それに、「人にも運にも恵まれている」という外向型であるが、その性格的特徴によってすべてがうまくいくかといったら、もちろんそんなことはない。たとえば、「寂しい」と感じる局面だ。「寂しい」気持ちになりやすいのは、実は内向的な人ではなく外向的な人だと私は考えている。

内向的な性格の人のほうが寂しく感じやすいと思われがちだが、私たちのような性格の人間は、一人でいてもやりたいことがたくさんあり、あまり寂しさを感じない。一人の時間に寂しさを覚えやすいのは、むしろ他人と時間を過ごすことに充実感を覚える外向型のほうだとも考えられる。

こうして改めて考えてみると、内向型も損ばかりではない。また、内向的な性格であるがゆえの強みももちろんある。一人の時間を楽しむことができて、外部の評価も気にしにくい内向型は、「なんでそんなことやってんの?」と周りから不審がられてしまうような、変なことにでも集中できるのだ。

私自身も、大学と大学院でチェコ映画におけるブラックユーモアの表現について研究したり、ビジネスでも恋愛でも人間関係でもない、読んでもほとんどタメにならないブログを6年間も書き続けたりと、妙なことをたくさんやってきた。

でも、その妙なこと一つひとつのおかげで、私はたくさんの理解者に出会えたし、その中には今の仕事につながっている出会いもある。「妙なこと」に取り組むことができる内向的な性格に助けられて、今、自分の好きなことを無理のない形で実現しながら働くことができている──と解釈することもできるかもしれない。

ノートにペンを走らせる女性のイラスト

大人になって良かったと思うことの一つは、選択肢が増えたことだ。

幼い時はたとえば学校のように、目の前にあるコミュニティに強制的に参加しなければならなかったが、大人になった今は、一緒に時間を過ごす人をある程度は自由に選ぶことができる。もちろん、同僚や上司といった存在を思うがままに選ぶことはできないので、完全に自由というわけにはいかないだろう。それでも、少なくとも小学生や中学生のときと比べたら、だいぶマシではある。

内向型の人間が努力しなければならないのは、外向型の性格に自身を変えることではなく、周りの人に自分の特性を理解してもらうこと、所属しているコミュニティに対して敵意はないことを示すことだと、働きながら人と接する中で考えるようになった。

幼い頃、学生の頃、あれだけ苦々しく思っていた性格について悩む時間は、ありがたいことに大人になるにつれて減っている。今は「無理やり」友達を作ったりせずに、自然に惹かれあった仲間と距離感を保ちながらマイペースで付き合っていられるし、一人で過ごしたいと思ったときは、特にそれをとがめる人もいないので、思う存分一人で過ごしている。海外旅行だって一人で行く。

思いっきり内向型の人、あるいは内向型の気質もそれなりにあると感じる人、内向型の性質にはあまり当てはまらないと感じる人、いろいろいるだろう。人は多様なのに、私の実感では社会は外向的な性格の人にとって、より暮らしやすいようにできている。

でも、同時に変化も感じる。社会における多様性が叫ばれるようになり、今後、あらゆる種類の少数派が理解されやすくなっていくだろう。そう感じるのだ。「一人」を楽しめることが寂しいことでも心配されることでもなく、強みとして社会に受け入れられるようになったらいい。その第一歩として、私は内向型の人たちに胸を張ってほしいし、一人で過ごす時間の楽しさを、もっと周囲に伝えていってあげてほしいと思う。