九州の片隅で、内科医として働いているFujiponという者です。

東京医大の入試での女性差別問題というのが話題になっているのですが、僕自身は、この件に関しては、偉そうに語る資格はないな、と思っていました。自分の目の前の仕事をこなすことで一杯一杯で、なんとか20年くらいこの仕事で食べてきた、という感じで、医療の世界全体を見渡すような余裕もなくて。

でも、あの事件の発覚から少し時間が経ち、そういう「大きな賞罰なしで臨床の現場で働いてきて、配偶者も医者だった人間」だからこそ語れることもあるのではないか、と考えるようになり、この文章を書きました。

「仕事も家庭も大事だけれど、両立する難しさに直面し、どうしたら良いかわからなくなることがある」。そんな人たちに読んでいただけると嬉しいです。

僕が地方大学の医学部に入って驚いたこと

「女が一生続けられる仕事なんて、学校の先生か医者くらいしかないからね。こんな田舎だとだとなおさら」

僕が地方大学の医学部に入って驚いたのは、同級生の女子から、こんな言葉を立て続けに聞いたことでした。

僕は男子ばかりの進学校の出身で、それまで、同世代の女子に接する機会がほとんどなく、「女子というのは、こんなことを考えているものなのか」と驚きました。今から考えると、男子の多くは、「医学部に受かること」の先は、あまり考えていなかったのだよなあ。

僕が通っていた大学では、概して、女子のほうがきちんと講義に出席していて、成績は良かったのです。「覚悟」が最初から違っていたのでしょうね。

ところが、病院で患者さんと接する臨床実習になると、成績や本人のやる気とは関係なく、あからさまに「女性はうちの科には向いていないよ」という態度を示す科がありました。女子だからといって、露骨に邪険にされることはないけれども、積極的に勧誘されることもない「お客さん」という扱い。

そういう科(外科など)での医者の働きぶりをみていると、1カ月に家に帰るのが2、3日で、あとは病院に泊まるか当直のアルバイト、という感じで、僕は「カッコいいけど、これをずっと続けるのは自分には無理だ」と思っていました。その一方で、こういう医者がいないと、手術の術後管理や集中治療室での治療というのは成り立たない、という現実も思い知らされたのです。

臨床医の仕事に必要な要素とは?

入学してから、卒業し、医者として働き始めるまで、留年なしでも6年間。いろんな人を見てきたけれど、大学時代の6年間というのは、人生への考え方や自分自身の向き・不向きへの評価が大きく変わるのに十分な長さなんですよね。

「絶対に結婚はしない。一生仕事を続けたい」と言っていた人が、「自分が臨床には向いていないから、結婚してアルバイトで稼ぐくらいにしておく」と宣言したり、自分のやりたい科はあるけれど、親ももう年だし、やっぱり地元に帰る、という選択をしたり。

入学時に、医者になる以外の選択肢がほとんど消えてしまう医学部というのは、ラクでもあり、難しくもあるのです。

そもそも、医学部に受かるために必要な能力と、医者という仕事、特に臨床医を続けていくために求められるスキルには、けっこうズレがあります。

多くの大学の医学部は、ペーパーテストである程度の点数がとれて、面接官に不快な印象を与えることがなければ、入ることができます。

でも、臨床医の仕事に必要な要素って、「頭の良さ」というよりは、寝不足が続いても耐えられるような体力・持続力と、プレッシャーや対人関係のストレスにさらされつづけてもキレずに平常心を保てる精神的なタフさなんですよ。

そういうものに性差はないと思うのだけれど、「真面目で、優等生としてやってきた人」ほど、臨床では、理想と現実とのギャップや自分の肉体的・精神的なスタミナのなさに悩みやすいのです。

お前がそうだったんだろ、と言われると、返す言葉もないんですが。

第三者的に見た「社会」と目の前の「現実」

僕がまだ若手だった時、医局からの派遣先の病院の偉い人に挨拶に行った時の反応が印象に残っています。

「おお、今年は男か。よかったよかった。女医さんで、派遣されてきていきなり妊娠とかされると、困るからね」

もう20年前くらいの話だけれど、僕も、この言葉は不快でした。

でも、派遣先の病院からすれば、貴重な戦力の医者が、「妊娠」という避けられない理由で減ってしまう(もちろん、代わりなんて来ない)、というのは、現実的に「ものすごくきつい」のです。つらい当直が4日に1回から3日に1回になるし、外来も入院患者の数も増える。給料が上がるわけでもないのに。

僕も同僚の「産休」を経験したときは、大変でした。

ただでさえキツいところに受け持ち患者の数も、行う検査の数も増え、僕のヒットポイントはいつもゼロに近くなっていました。ラクで稼げるアルバイト先も、その産休中の先生が行くことになり、僕に回ってきたのは、キツくて安い、「ブラック当直」だったのです。

いや、これはしかたがない。子どもが生まれるんだ、めでたいことなのだ。……と自分に言い聞かせていたのですが、「なんでこんなしわ寄せが……」という想いは、心の中にずっと澱んでいました。

そういうのは、社会がおかしい、システムがおかしい。僕だってそう思います。

当時の僕は、雲の上から第三者的に見た「社会」とか「産休という権利」と、目の前にある「降ってわいたようなハードな状況」の板挟みになっていました。

他人事としてなら、「妊娠中は休むのが当たり前だし、社会や周囲はサポートしてあげなきゃ!」と簡単に言えるけれど、実際にそのサポートをする立場になってみると、自分を納得させるのは、なかなか難しかったのです。納得しきれなかったから、こうして今でも覚えているのでしょう。

「社会」を語るとき、その「社会」に自分を入れ忘れている人は、けっこう多い。僕も、そうでした。

働き方の「正解」を他人が決めることはできるのか?

幼児を診察している写真
(写真:Ushico/PIXTA)

東京医大の入試の「男女差別」で、医学部の入試は、少なくとも一部の大学では「女性に不利」だということが白日の下にさらされることになりました。そんな差別は、許されることではない。

ただ、現在、2018年でも、「女性が一生働き続け、キャリアを積み上げて評価される職業」というのは、そんなに多くはない、という気がするんですよね。30年前よりは、はるかにマシにはなっているとは思うけれど。

医療の世界で仕事をしていると、個人個人の「働くこと」への意識の差が、そもそも大きいのだ、ということも思い知らされます。

「自分が手術をした患者さんのことは、何かトラブルがあったら自分で対処したいし、休みの日でも回診や処置をするのが自分の役目だ、医者というものだ」という人もいるわけです。医者の世界には「勤勉モンスター」「勉強や仕事が娯楽」みたいな人が少なからずいるんですよ。

僕はこの世界で名を成すことは無理だと割り切って、現在はそんなに忙しくない職場でのんびり働いているのですが、それが「正しい」のか、と言われると、まったく自信はないです。僕にはこういう働き方しかできないけれど、患者さんのためとか人類のために仕事をやり抜きたい、という人は「すごいな」と思うし、羨ましくも疎ましくもあるのです。

僕の知り合いの内科の女性医師は、出産後にブランクが長引かないように、3ヵ月くらいで職場に復帰していました。その際には実家の親のサポートを受けるともに、ベビーシッター3人と契約していたそうです。緊急の呼び出しの際にも、誰かに預けられるように、と。

すごくお金がかかるんじゃない? と思わず尋ねてしまったのですが、彼女は「給料はほとんどそれでなくなってなってしまうけれど、今は、他の人に差をつけられないほうが大事だから」と言っていました。

こういう話をすると、「夫は何をやっているんだ」ってネットでは怒られてしまうのだけれど、彼女の夫も忙しい内科医で、仕事をやりたい人でした。彼らにとっての「正解」を他人が決めることができるのだろうか。

「男女平等」が間違った圧力につながるのでは、という僕の危惧

子どもがいなければ、それぞれやりたいだけ仕事をして、都合が良いときに、一緒に過ごせばいいけれど、子どもというのは、一人にはできない時期があります。僕の場合も、それで妻を犠牲にしてしまったのではないか、という思いがあるのです。医者としては、なんとかやってきた、というレベルの僕よりもずっと優秀だったのに、可能性を潰してしまったのではないか、と。

僕の父親は医者で、母親は元看護師でした。僕が物心ついた時には、母親はもう仕事をやめて専業主婦になっていたのですが。

僕の両親は、「医者は毎日くたくたになるまで働いて、仕事や飲み会で家に帰ってこなかったり、帰るのが遅いのが当たり前」という価値観を共有していました。「子どものオムツを替えたことなんてなかった」と母親はよく言っていたのです。

僕は「そんな夫婦関係は間違っている」と思いつつ、両親の価値観を無意識に受け継いでしまったところもあるのです。今の40代くらい、いわゆる「団塊ジュニア」世代は、古い家族観と新しい家族観の過渡期を困惑しながら生きてきた人が多いのではなかろうか。

女性医師には、いわゆる「主夫」として家のことをやってくれる人をパートナーにしている事例も少なからずあります。「それもあり」だと思うのだけれど、それは「家のことを全部妻任せにして働いている男」の男女を逆にしているだけではないのだろうか。

僕は「医療の世界での男女平等」が、「じゃあ、男も女も、みんなちゃんと休みを取れるような働き方にしよう」という方向にではなく、「それなら、女性医師も夜中に緊急の呼び出しに対応し、小さな子どもがいても当直してくれるんだよね」という圧力につながるのではないか、と危惧しているのです。

医者というのは、同じ医師免許を持っていても、スキルや働き方のスタイルは千差万別です。個人個人の給料が下がっても、もっと医者の数を増やして、みんながオンオフをしっかり切り替えられるようになればいいのだけれど。

仮にそうなったとしても、「ひとかどの医者になりたい人」は仕事を重視するでしょうし、そういう医者の恩恵を受ける人もいるので、「横並び」にはならないはずです。医者のプライドとか競争心が医療を発展させてきた面は、たしかにあるのです。

医者を育てるには時間がかかるし、医療って、やっている側からみるとうんざりするくらい、日々、診断や治療が更新されているんですよね。もしかしたら、人工知能による自動診断・自動処方による解決のほうが、性別による差別や忙しさの解消よりも、手っ取り早いのではなかろうか。

女性医師のメリット・デメリットを語る人たちに思うこと

最近読んだ、糸井重里さんの『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』という本の中に、こんな話が出てきました。

糸井重里さんは、1980年代のはじめに、西武流通グループが結婚、出産、育児で退職した女性の職場復帰を促進する「ライセンス制度」を紹介する広告を担当することになったそうです。

広告に使う写真は、ライセンス制度を使って寿退社した第一号社員の花嫁姿。

そしてぼくは、その写真に「人材、嫁ぐ。」というコピーを書きました。

「古賀史健がまとめた糸井重里のこと。」(ほぼ日文庫)より

糸井さんは、「貴重な人材である女性社員が嫁いで(退社して)しまうのは、とても惜しい」という思いを込めて、このコピーを書いた、と仰っています。ところが、これを見た、西武百貨店の代表だった堤清二さんは、幹部社員たちに向かって、こう言ったそうです。

「女性が結婚するとか、出産するということは、その人の人生にとって、もっとも大切なことですよね?」

ことばは丁寧ですが、堤さんは怒っているときほど、ことばが丁寧になります。

「その女性は、ひとりの個人として、結婚という大切な人生の門出を迎えたんですよね?」

そうです、としか言えません。

「もっとも喜びに満ちた、ひとりの女性の、大切な人生のイベントを……仕事が大好きで生産性やら効率やらのことばかり考えている西武百貨店のお偉い方々は、『ああ、役立つ人材が嫁いでいく』というふうに見ているんですか? ひとりの人間として祝福されるべき結婚式の花嫁姿を目にして、『人材が嫁ぐ』と考えているんですか?」

語調は、だんだんと激しくなっていきました。

「こんな企業の論理を、女性たちに押し付けるようなことが、ぼくらのやりたかったことなんですか!」

「古賀史健がまとめた糸井重里のこと。」(ほぼ日文庫)より

糸井さんは、この堤さんの反応に「完全に打ちのめされた」そうです。

僕は、「女性医師のメリット・デメリットを語っている人たち」は、医者というのを(あるいは、人間というのを)単なる「人材」として見ていて、「生産性」とか「効率」で評価しているように感じます。

人は「社会や企業の生産性」を高めるために生きているわけではない

もしかしたら、僕たちは、いろんなものを背負いすぎているのかもしれない。

人間は「社会や企業の生産性」を高めるために生きているわけではないんですよね。ただ、幸せになりたい、自分で納得できる生き方を選びたい、それだけなのです。「生産性を高める」のは、そのための手段にしかすぎない(それも、必ずしも正解とは限らない)のに、いつのまにか、手段のほうが目的にすり替わってしまった。

現場には、「モンスター患者」みたいな人もたくさんいて、それで消耗することも少なくないのだけれど、日曜日に回診をしていた時、僕は、入院患者さんに「先生、日曜日も大変ですね、診にきてくれてありがとうございます。でも、ちゃんと休んでくださいね」と何度も声をかけてもらったことを思い出します。

医療は何のためにあるのか、と考えると、結局のところ、患者も、医療関係者も、みんなが幸せになるためにあるのです。そうである限りは、どこかに「みんなが大満足はできないかもしれないけれど、受け入れられるところ」が存在するのではないでしょうか。

20年くらい前と比べると、「どうして主治医が看取りにこないんだ」とか、「心臓マッサージでも挿管して人工呼吸器につなぐのでも、なんでもやって1秒でも長生きさせてくれ」とか言われることはだいぶ減りました。

医者のほうが気負っているだけで、世の中は(一部の人を除いては)、人間の寿命や死に方について、本人にも周囲にも過剰な負担をかけずに、自然に任せるようになってきています。

人は誰かに迷惑をかけないと生きていけない存在なのだ

今、現場で頑張っている人たちに、これだけは伝えておきたい。

「みんなに迷惑をかけないように」なんて考えていると、きつい仕事から逃げられなくなるし、妊娠・出産なんて、ずっとできなくなってしまいます。

「人というのは、誰かに迷惑をかけないと生きていけない存在なのだ」ということを、最近よく思うのです。「あなたに迷惑をかけられた」と誰かに言われることをおそれていては、結局、身動きが取れなくなってしまう。

とはいえ、やっぱり、なるべく人に嫌われたくないしなあ、というのもありますよね。

男女にかかわらず、自分の生き方を変えようとするならば、どこかで一度は、「ワガママ」を貫いて、他人に嫌われざるを得ないのだと思うのです。

日頃からワガママばかりでは、周囲の協力は得られないけれど、周囲に妥協してばかりでは、自分の人生がなくなってしまう。恨まれても、嫌われても、自分がやるべきことをやらなければならないタイミングって、あるんだよね。

誰が正しいとか間違っているとかじゃなくて、人が生きるというのは、そういうものなのでしょう。

誰かに嫌われることをおそれて自分のやりたいことができず、結局、誰も幸せになれない世の中よりも、お互いに迷惑をかけながらでも、それぞれの人が幸せになることに挑戦できるほうがいい。

そこであなたを嫌いになる人たちは、絶対に、あなたの人生に責任なんて取ってくれないのだから。

この記事を書いた人

Fujipon(ふじぽん)

Fujipon(ふじぽん)

40代半ばの「なんか生きづらいなあ、と思いながら、ブログをずっと書いていたら、人生の折り返し点をいつのまにか過ぎてしまっていた」男です。九州の地方都市在住で、内科医として働いています。1年くらい前に大きな病院での当直や救急から卒業し、平穏な日々を過ごせるようになりました。

座右の銘は「人生経験が豊かな人というのは、基本的に嘘である」。趣味というか主食は本とゲーム。カープとレトロゲームと競馬とともに生きてきました。大好きな作家は、筒井康隆、村上春樹、中島らも。

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