もうこれ以上、この仕事はしていけないかも。

そんな予感に打たれたのは、正式にライターと名乗り始めてから丸3年経った頃のことだった。

「好きを仕事にした」はずだったのに苦しんだ20代の終わり

キャリア的にはまあまあ順調だった。実績のほとんどない状態から新書『百合のリアル』の企画を立ち上げ、刊行までこぎつけたのが26歳の時。そこから立て続けにブックライティングの依頼を受けた。ウェブ記事制作でも、クライアントワークでも何でもやった。

業界の大先輩に声をかけられ一緒に働くこともできた。そのままいけば、かなり大きな企画にも関われそうな雰囲気だった。フリーライターにわかりやすい出世ルートなどないものの、このときの私はたぶん、足軽から足軽大将になれそうな地点にはいたと思う。

でもそこにたどり着いた瞬間、胸のカラータイマーがピコンピコン鳴り始めてしまった。

とにかく、心身ともに弱り果てていた。生理も止まっていたし、神経症のような症状が慢性化していた。仕事はこなしていたが、おそらくほとんどうつ状態だったのだろう。

へばった理由はわかっていた。「自分の信条と違うことを書く」作業に疲弊しきっていたのだ。

当時の私は、基本的には「『誰かの考え』をより魅力的に、より大勢に伝える」仕事をしていた。もちろんそこには意義も、面白みも感じていた。

ところが、その仕事が拡大していくのとひきかえに、私はどんどん磨耗していったのである。良いと思えないことを良いと、悪いと思えないことを悪いと書くべき機会が、倍々ゲームで増えていったからだ。

誰が悪いということもない。単に価値観の違いがあるというだけだったが、苦しかった。

それが苦痛なのはライターとして未熟なせいであると思っていた。私の仕事は主義主張を表明することではないんだから、もっと慣れて、割り切れるようになろうと。

……それが無謀なチャレンジだと気づいた時には、体のほうがまずガタガタになっていた。

書きたくないことは書きたくない。それが私の偽らざる本音で、本性だった。わがままだろうが頑迷だろうがそれはもうどうしようもないのだと、その状態になって私はようやく諦めた。

なぜそこまで耐えてしまったかというと、「文章を書くこと」自体が私にとって、基本的には「好きなこと」だったからだ。

「これは私が選んだ、私の好きな仕事なんだ」という認識、というか執着が私にはあって、それが私の判断を遅らせた。

結局私は翌年、30歳になったところで一念発起し、少しでも信条と合わない執筆依頼は根こそぎ断るようになった。受けられる仕事は一時期極端に減ったし、当然収入も激減した。不安がなかったといえば嘘になるが、迷いはなかった。このままじゃまずい、という感覚が最高潮に達していたからである。

「好きなことに苦戦した自分」に、とにかく失望していた

仕事の受け方を変えたことで、書くのが少し楽になったのは確かだ。しかし、いいことばかりではない。それまでの抑圧の反動か、すさまじい自己嫌悪にも襲われてしまった。

好きだったはずの「書くこと」でへばった自分、順調だったキャリアをいきなりちゃぶ台返ししてしまった自分、目をかけてくれていた何人もの先輩たちの期待に応えられなかった自分。

そんなふがいない自分の姿がありありと目の前に迫ってきて、毎日生きた心地がしなかった。私の代わりのライターなんていくらでもいると知ってはいたけれど、そんなこととは別に、自分で自分が情けなかった。

この頃の自分のことを思い出すと、とにかく「自分に失望していた」という感覚ばかりよみがえる。ただ不幸中の幸いだったのは、私が極めて内省的な人間で(ストレングスなんとかでもこれが一番の資質だった気がする)、けっしてヤケになるタイプではなかったことだ。

落ち込んだ時、私は必ず「落ちるところまで落ちてみて、ひたすらネチネチ考える」方向で事態と向き合う。だからこの時も、私は黙って自分の中に沈み込んだ。自分を情けなく思うのはなぜか。どう考えれば情けなく思わなくなるか。それが内省のテーマだった。

最初は、「そもそも、ライターになりたかったわけじゃない」という考えで自分を納得させようとしていた。

私がライター名義の名刺を持ちだしたのは、『百合のリアル』を制作した直後だ。本も作ってしまったことだし、私の立場が明確でないと周りの編集者さんたちも混乱するだろうから、ということで、いちばんわかりやすい肩書きとしてライターを名乗ったのである。

つまり、そもそも私の中に「ライターとしてどうの」という望みはなかったのだ。「この仕事は、今後のことを考えたら引き受けるべきだろう」なんてことを考えるようになったのは、編集者や同業者に囲まれ、いろんな仕事の選択肢が目の前に並べられるようになってからだった。

目の前にそれがあったから、欲しくなった。つまりそれは単発的な、ある意味では周囲に影響されてできあがった「好き」だということだ。つまりそれは、「本当に好きなこと」ではなかったのだ。

ただそれでも、「文章を書くことが好き」という“核”自体は変わらない。たしかに信条と合わないことでも器用に書けるタイプではなかったけど、これからはまた肩書きにとらわれず、自分の考えたことや経験したこと、創作文章ばかり書いていけばいい……。

と、まずはそういう風に考えてみたものの、なんだか違う気がした。

一見、それっぽくはある。「本当に好きなことを認識し直した」というアラサー女子の自分探し映画の筋立てみたいだ。この方向性で納得しようと思えばできる気もする。

でも違う。その証拠に、私の気持ちは晴れていなかった。

私のこのモヤモヤは、本当に「一番好きなことをできていなかった」からなのか?

ルパンを追う銭形警部のような執念で、私はそれについて考え続けた。そうしたら、あまりに単純で、盛大な勘違いポイントが見つかったのだ。

私の「書きたい」という気持ちはどこからやってきたのか

「書きたい」という気持ちは、本当に私の“核”なんだろうか。これが、私が新たに考えたことである。そして結論から書くと、そうではなかった

私は「書くことが好きで、たくさん書きたい」という気持ちだけを何か特別な、自分の本体のように思っていた。というか、思おうとしていた。それが自分のよりどころとなると考えたからである。

でもよく考えれば、「書きたい」という気持ちだって、「ライターとして頑張りたい」と同じ、どう考えても「もともと私の中にはなかったもの」ではないか。

思想家・文芸評論家のルネ・ジラールは、食欲などの生理的欲求を除けば、人間に自発的な欲望はないと語っている。欲望は常に「模倣(ミメーシス)」という形をとる、というのが彼の論だ。難しい話ではない。要は「人が何かを欲しがっていると、それを見た他の誰かもそれが欲しくなる」ということだ。

映画『男はつらいよ』の寅さんが、物を叩き売る時に子分にサクラ客をやらせるのはなぜかを考えてみればわかる。人間は、「人が欲しがっているもの」を欲する生き物なのだ。

以下、何かを欲することを、ジラールに合わせて欲望と表現する。

物書きになりたいという欲望が生まれたきっかけは、今でもよく覚えている。

『若草物語』のジョー、作家を夢見る男まさりな次女との出会いだ。私は6歳のときにこの小説を読み、彼女の欲望に一発で、全身で感電してしまった。彼女が物語の中で「5、6編のおとぎばなし」を書いていたせいで、私も長い小説を書くようになったのである。

「模倣」したのはそれだけではない。間違いなく私の両親も含まれる。彼らは2人とも、ざっくりいえば物書きだった。亡き父は元広告プランナーで、元編集者の母も父の死後ライターとなった。父は下手くそなりに短歌だか川柳だかをよく手帳に書いていたし、母もよく小説を書きたいと言っていた。

私の「書きたい」という欲求は、確実に彼らの模倣でもある。もっとほじくれば、これは、「そういう欲望を持って生きていた彼らに認められたい・愛されたい」という欲望の表現も兼ねているんだろう。

私はジョーの、両親の欲望の、つぎはぎでできているキメラだ。私の中に、私一人の、自発的な欲望なんてひとつもない。「ライターとして頑張りたい」も、「書くのが好きだ」もまったく変わらない、同じ「借り物の欲望」だったのだ。

……というところまで、私の考えは突き当たった。そうしたら、ふっと楽になった。

「自分の『好き』は全部誰かの模倣だった」という結論なんて、より落ち込むだけじゃないかと思うかもしれない。でも、意外かもしれないがこれが逆なのだ。私の場合、そこへの執着が鬱々の理由だったからだろう。「そうか、頑張って模倣してきたんだ。なかなかよくやってきたじゃん」と思えたとき、私はようやく、自分を責めるのをやめることができた。

それから私は、セーブしていた仕事をまた増やし始めた。名前の出ないクライアントワークも、取材仕事もした。以前にはあまり縁のなかったコラムや小説の仕事との縁もできた。今はまた、文章を書くことが、文章の仕事をすることがとても楽しい。

「好き」を自分そのもののように思うのはちょい危険

「『好きなこと』を仕事にできるのは幸せだ」という言葉をよく見聞きする。

私自身、ずっとそう思っていた。私は小さい頃から書くことが好きだったから、それを仕事にできたのはラッキーだったなと。これについては、今もそう思っている。模倣の欲望だとわかったあとでも、書くことが好きだという気持ち自体は変わらない。

ただ、「書くことが好きだ」と強く思い、かつ「『好き』を仕事に」していたからこそ、それをうまくできなかったという自己認識に苦しんでいたのも事実である。「書くことが好きな自分」というイメージに、アイデンティティをうっかり託しすぎていたのだ。

その苦しみを、私は「ライターとして頑張りたい」という欲求と、「書くことが好きだから、書きたい」という欲求を切り分けることで解消しようと試みた。より大切なのは、自分の“核”である「書きたい」のほうだと思おうとしたのだ。

でもさっき述べたように、人間の欲望なんて全部誰かの真似なのである。そう感じない人もいるかもしれないが、少なくとも個人的には、それが実態だと思う。

だから「『好き』を仕事に」という考え方には価値がない……と言いたいわけではもちろんない。好きなことは好きなことなのだから、何でもやればいいのである。

ただ、その「好き」を自分そのもののように思うのはちょい危険、ということだ。

そんなの当たり前じゃん、と思う人もいるかもしれない。私も、頭ではそう思っていた。でもどんなに気をつけていても、目の前のことに費やす時間の量や環境によっては、知らず知らずのうちに「好き」に執着するし、自分を託してしまうのである。

特に、うまくいっているときの「好き」は、それはそれは「自分の託しがい」があるし、それをちょっとコケたからいきなりひっぱがす、というのは難しい。

だから、「私にはこれしかない」という情熱も尊いけれど、「この『好き』はどこかから、たまたま今自分のところに引っ張ってきただけのものだ」というドライな考え方も、たまにはいいんじゃないだろうか

確かに、「その欲望はしょせん誰かからの借り物だ」と言われたら一瞬嫌な気持ちになるかもしれない。が、誰かから借りたものだからこそ丁寧に扱える、ということも人間にはあるはずだ。

私は、自分の欲望が小説のキャラや親と紐づいていたからといって、あるいはライターという肩書きに煽られてできあがっていったものだったからといって、「インチキな欲望だった」と否定する気にはならない。

小説に耽溺し親の褒め言葉を求めていた時代の自分、そして、「ライターとしても頑張ってみよう」と思った20代後半のときの自分ごと、まとめて未来に持っていきたい。それが自分への、そして今までに私に影響を与えてくれた人たちへの敬意のつもりだ。

そして、そう考えられるようになった自分のことを、31歳の私はもう情けないとは思わないのである。