自撮り女子「りょかち」爆誕

「りょかちさん、いつも拝見しています!」

そんなふうに、ここ数年、SNSで多くの人が私のことを「りょかち」として知ってくれるようになった。私の名前を聞いてみんなが思い浮かべるのは、自撮り美女だろう。私は、大学5年生の(留年生だった)頃、彼氏と水族館に遊びに行ったときに撮影した自撮りを面白半分でTwitterにあげたことをきっかけに、「自撮り女子」として取材を受けるようになった。

取材を受けるうち、「自撮り女子ってただのナルシストでしょ?」という世の中の目線に気づいた私が、本当の自撮りの楽しさをわかってほしいと思って書いた「自撮り女子はなぜ自撮りをあげるのか?」というブログが公開されると、ラッキーなことにそこから連載の依頼をいただくことができた。この頃の、「どんな新しい文化も(この時は自撮りは新しい文化だった)、やっている人は”私とは違う宇宙人”ではなく、共感しあえる隣人である」という考えは今も変わらない。

私にとって、新しい文化や誰かの言語化できない気持ちを、コラムや取材記事を通して、わかりやすい形にして世の中に投げかけることで、議論のタネになるような個人の声を集めながら、多くの共感と理解を醸成することが、日々の「りょかちさん」の活動の大きなやりがいである。

新卒2年目の5月には、そんな思いをもとに、”若者文化”を等身大に書き記した「インカメ越しのネット世界」という名前の本も出させていただいた。今では、さらに月に数本連載を持ち、リアルな20代のライフスタイルやネットの使い方を伝える登壇や、取材も数多く受けさせていただいている。本当にありがたい話だ。

「りょかちさんみたいに”自分の名前で有名になる”ためにはどうしたらいいですか?」

年に数回、そんな相談を受けることもある。

”普段、会社員の仕事をしながら、個人としても世の中に受け入れられている”らしい、私を羨ましく思う人もいるようだ。確かに、私は23歳でSNSを通して色んな人に「自撮り女子」として見つけてもらって以来、有り難い思いを沢山してきた。個人の名前でお仕事を沢山もらってきたし、経験豊かな社会人の先輩が名前を覚えてくれていたこともある。普通じゃ会えない人に会い、背伸びしたレストランに行き、ありがたい機会にいくつも巡り合った。

キラキラ女子は、孤独な休日から作られる

「りょかちさん」が私の人生の一部になって、人生は二倍のスピードで、二倍濃縮で進むようになった。りょかちさんと私は人生を分け合って、分散投資のように人生は安定した。私が人生を全否定されたような夜も、りょかちさんがいることで、まだ世の中に居場所があるような気がした。

だけど。そんな毎日を、「楽しいことしかない!毎日が充実している!」といったら嘘になる。有り難い毎日は、必死に手を伸ばし続けて手に入れた日々だ。いつも自分の需要にヒヤヒヤして、誰かとの比較で肩を落としながら次の作戦を考え続けて手にした世界だ。決して、遊んでいるだけで継続できたわけではない。

好きな人との予定を泣きながら断った夜がある。友人の誕生日パーティに行けなくて、誰よりも悔しいのに、誰よりも謝った夜がある。ひたすらSNSにあがる楽しそうな動画を横目に、1日も外に出なかった三連休がある。

それでも、テキストを通して、見知らぬ人と共感しあい、自分が思い描いていることを世の中に問いかけ、誰かの声が返ってくることが、おどろくほど嬉しくて、”気づけば”続けてしまっていて今がある。お金のためだけならばきっと、とっくにやめてしまっていただろう。「りょかちさん」をやることは何よりも楽しい趣味で、もはや彼女を通して見える景色を見ることは小さな生きがいなのかもしれない。

実際、結構二足のわらじって大変だ。新卒で入社して以来、土日が両方休みだった週末はない。どんな疲れた日だって、ソーシャルメディアでつぶやかなかった日はない。勿論、二足のわらじであることを理由に、仕事をサボったこともない。

けれど、そんなことを嘆く芸をやりたいわけじゃないのだ。そもそも、私より忙しい人なんて、山程いるのだから。

オンラインの炎上よりも辛い、オフラインの揶揄

それでも厄介なのは、一緒に仕事をしたこともないのに、私の「りょかち」としての活動を批判する人だ。気持ちはわかる。いろんなことをしていると、どれかに手を抜いているように思われるのは慣れっこだ。

だけど最近、そんな言葉を浴びるたび、思うことがある。

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深夜24時。駅から少し離れた小さな居酒屋で、同じ業界同士で集まった小規模な飲み会があってその日も、とある参加者が酔っ払った勢いで私にこう言った。

「正直、プライベートの活動で忙しかったら、普段の仕事も身に入らないですよね〜」。

正直、一緒に仕事をしたこともない人だったので、何もしらないくせに、と思ったが、私は、「そんなことないですよ、まったく別の活動ですから」と笑ってかわした。慣れっこだから。

けれど、彼は趣味のカメラを手に、店内の風景を撮るためにファインダーをのぞきながら、続ける。「でも実際、一生懸命働く気にならないでしょ?」

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私の名誉のために説明すると、そんなことは断じてない。むしろ、複数のことをやっているから長期のプロジェクトも飽きずにやれるし、本格的なメンタルダウンもしない。打たれ弱い私が今の会社員としての仕事をできているのは、自己肯定感をもらえる個人の仕事があるからだ。

でも、最近はこんな時に思うことがある。それは、「それ、子持ちの女性やイクメンにも言えるの?」ということだ。

「母親」をやっている人もまた、「二足のわらじ」ではないのだろうか

私に子どもはいないが個人の仕事をやってみて、「これはワーキングマザーに似ているかもしれない」と思うことがある。

個人の仕事は自分の子どものようなものだ。実際に動きが活発なのは日中で、だけど日中は会社員としての仕事があるから動けない。いろんなチャンスもそれであきらめることがある。時には、主催するイベントに関する対応で定時よりも早く帰宅しなければならないこともある。さらには緊急対応が必要な時だってある。

だけど、普段の会社員としての仕事に対して手を抜いているわけじゃない。

きっと、個人の仕事よりも子育てのほうがずっと大変だと思う。24時間対応だし、思い通りにいかないことがデフォルトだろうし、日中の子どもの成長を見られないことは悔しいだろうし、愛情が深く濃密に詰まった存在を抱えながら仕事をしなければならないのだから。

そんな子育てと同列に自分の仕事を並べるのはおこがましいが、それでも、「自分の好きなことを大事にしながら仕事をする」という意味では一緒ではないかと思うのだ。企業人としての仕事以外に大事なことを、大事にしてるからって、普段の仕事が大事じゃないわけじゃない。わたしたちは、企業人としての仕事も、個人としての仕事も、どちらも本気で、命がけでやっている。

「好きなことを大事にする」をしながら、仕事をするということ

さらに言うならば、子育てに限らず、誰もが仕事以外に大事にしていることで社会とつながっているはずなのである。そのたびに、「子どもがいると仕事もまともにできないね」とか「好きなものを楽しむことに精一杯だと、仕事も身に入らないでしょ?」と言われることが、どれだけ息苦しい社会にするだろう。私たちはこれからも、「仕事以外で」工数のかかる幸せを手に入れようとするたび、誰かの目を気にしなければならないのだろうか?

私の友人は手先が器用で、自分でアクセサリーを作ってはフリマに出品している。彼女は言う。「自分が作ったものが、誰かの手に渡って喜んでもらえている反応を直で知ることができることで、元気をもらってるの!」。

私の先輩は、子どもの成長ぶりを見るのが大好きで、毎年長期休暇をとって、ボランティアで子どものキャンプをサポートする役割をずっと続けている。とある知人は、地方が大好きで、自分の感性と趣向の結晶のような無料冊子を作って定期発行している。

誰もが、「仕事以外」の何かのためにも一生懸命になれることが幸せにつながる、と私は思う。それが「複業」でも「家族」でも、だ。何かに一生懸命になることは、いつもそれ以外の何かへのエネルギーを削ぐものではない。時には、課外活動が自分を成長させて、持てるエネルギーを数倍にすることもある。

私は、「りょかち」というキャラクターがなければ、自分の発信に対して、実際に毎回多くの共感をもらいながら、企業人としての仕事であるWEBサービスづくりにも使えるようなユーザーニーズを確かめることができなかっただろうし、りょかちさんがいるからこそ、確信を持って打てる施策がある。

子どもがいらっしゃるママさんの意見も然りだ。子育てによって得られる危機管理能力や忍耐力はビジネスマンの修行によるそれらに勝る部分もあるだろう。それぞれのパーソナリティが物事を動かす歯車であるならば、その歯車の源泉は日々の豊かな生活である。

絶望のループから、自分を脱出させる方法

私は、自分が今、「会社員としての私」だけでなく「りょかち」としての暮らしをいとなみ、複数のアイデンティティを持っていることを揶揄されるたびに、”おんなのこ”として絶望する。なぜなら私はいつか、愛する誰かの「妻」や、愛しい誰かの「母」といった、新たなアイデンティティを持ちたいと思っているからだ。

先日、とあるネットラジオで「りょかちさんの夢は?」と聞かれた。その時、自然と口からこぼれたのは、「母になること」だった。誰かがわたしを人生の伴侶に選んでくれて、さらには誰かの親になることがもしできたなら、今の自分が複数のコミュニティで活動していることを生かして、「社会にとっての私」と「個人として(母として)の私」の両方をうまくやりくりしたい、と話した。

誰かと家族という「共同体」を作るようになったなら、人はみな「複数の自分」をやりくりするようになる、と私はとらえている。「母としての自分」「会社員としての自分」「妻としての自分」は、どれも社会とつながって、自分が担う「役割」をふんばって支えていくようになるのだと思うのだ。

だから、誰もが「仕事」でしあわせになるために、「仕事以外」のシアワセをみんなで祝福したい。誰もが「仕事以外」でしあわせになるために、「仕事」でのシアワセを守っていきたい。

私は日々、心から、かけがえのない、代わりもきかない”自分の大切な人にとっての特別な誰か”としての「母」という仕事をまっとうする女性たちを尊敬し、時に励まされ、少しだけ羨ましく思いながら、人生の先輩の後ろを走る気持ちで過ごしている。

誰かがママさん社員のお迎え時間を考慮してMTGを設定するように、私や私以外の誰かがイベントで早めに帰る日の「さよなら」を言ってくれる人がいたら嬉しい。誰かが、イクメン社員さんがお子さんのお見送りで出社が遅れることを確認するように、誰かが私の友人の活躍を喜んでくれると私も嬉しい。

私も、誰かの「彼氏」であり、「父」であり、「アイドルのファン」であり、「サッカーチームのサポーター」であるあなたを喜びたいから。

自分のシアワセのために、誰かのシアワセから耕そう

私より忙しい人なんて、山ほどいる。だけど、それでも、みんながそんな毎日を繰り返し、繰り返し、続けているのは、それらをたまらなく愛しく思う瞬間があるからだろう。それは、何人にも侵されざる領域であり、誰かが悪く言ったってあきらめきれない宝物だけれど、だからといって不用意に誰かに傷つけられて良いものではない。

私たちは、自分の権利は主張するくせに、誰かの権利に対しては、いささかケチだったりする。

目の前にいる「誰か」が自分の目の前以外で慈しんでいる、その「誰か」まで思いを馳せられたら。自分がこっそり慈しんでいる「自分」もまた、肯定できるだろう。その、ゆるくも優しい世界へ続く扉は、カーテンの後ろにすでに隠れていて、あなたがカーテンを開く紐を引いてくれるのを待っている。

あなたがまだ、その「扉」を活用する日は遠くても、まずは、”誰かのために”扉を開けることが、未来の自分を助けることに、きっとなる。「やりたいのにやれないこと」をやるためには、Twitterで誰かを批判して”自分だけ“の権利を主張するよりも、「やりたいこと」を自分と同じ環境でやっている人を支援することのほうがずっと、未来の自分の「やりやすい環境」を作ることにつながるのだ。

自分のシアワセにがめつい私はこれからも、誰かのシアワセに対しても、「太っ腹」でありたいと思う。私が誰かのシアワセのために、気遣いを大盤振る舞いしたならば、その人はきっと、私のシアワセも美味しく召し上がってくれると思うからだ。