エッジの立った言動やコンテンツでネットを席巻するマドカ・ジャスミン。熱烈なファンが多い一方、アンチの激しい攻撃を受けることもあります。「余計なことを言ったら叩かれる」と萎縮してしまいがちな空気の中、なぜ彼女は生き生きと動き回れるのでしょうか。

「平井理央に似ている」がきっかけでライターデビュー

“マドカ・ジャスミン”の活動の歩みは、アンチとの対峙の歩みと言っても過言ではない。何を隠そう、ライターとしてのデビュー作となった記事ですら、その題材はアンチが与えてくれたものだった。

なにしろ、私の「笑顔が平井理央に似ていると言われた」というツイートに対して投げかけられたアンチからのリプ、「300万円かけて整形してこい」という一言から、『「ブス!!!」と炎上したので、美容整形外科に行ってみた』という企画が生まれたのだから。

元々、Twitterを本格的に稼働させ始めたのは、高校生の頃。当時の私は、地下アイドルとしてライブ活動や撮影会をはじめとした活動を行っていた。

その時に応援してくれていたファンとのコミュニケーションを図るためにTwitterを使っていたのだ。そして、そのアカウントをそのまま今も使っている。

ファンとのコミュニケーションツールだったという事情もあり、Twitterには自撮りも積極的に載せていた。かつ、当時は今よりも露骨に男女関係のアレコレを綴っていたこともあり、ネットで誰かを叩きたい輩たちにとって、それはそれは格好の餌だったわけだ。

私は「ブス」と言われたことがなかった

20歳そこらの女が顔出しをして、性的な表現を綴る。よくあったのは、「そんな顔のくせに」「ブス」といった中傷である。ヤリマン・アバズレなどの親が見たらブチ切れそうな言葉をこれでもかと浴びせられた。

私も乙女の端くれなので、最初のうちは容姿を中傷する言葉を投げつけられる度に病んでいた。

敢えて言う、病んでいた。

またアンチが喜びそうなことを言ってしまうが、私は生まれてから“マドカ・ジャスミン”になるまで、「デブ」とは言われた経験はあれど、「ブス」と言われたことは一度もなかった。何も脚色していない。事実である。

それが、Twitterでは一転して、顔面カースト最下位扱いのオンパレード。会ってもいない、話してもいない人たちに「ブス」と言われ続けて、病まない人間のほうが少ないだろう。それぐらい酷かった。

中傷は好意の裏返し!?

「じゃあ記事に対する中傷にはどう思うの?」という疑問を抱いたかもしれないが、それはまた別物だ。

なぜなら、記事に対する中傷には「私が作ったプロダクトを体験してくれた」という前提がある。中傷しているといえども、いわゆるお客さまなわけだ

確かにお客さまから理不尽なクレームが入れば、悲しかったり、つらかったりするかもしれないが、彼・彼女らが数字(PV等)に貢献してくれたのは、まぎれもない事実。仮にタイトルだけに釣られての脊髄反射的なクリックだったとしても1PVには変わらない。しかも、SNSでシェアまでしてくれたなら、それはもう最も大事にすべきお客さまと化す。

私の中にはそういう考えがあるため、記事に対する中傷はさほど気にしていない。

しかし、個人に対する中傷は話が違ってくる。もちろん、それさえもフォロワー数増加を見込んで武器にしようとした時期もあった。アンチに真っ向から噛みつく、自分個人に対する中傷ツイートに対して「いいね」やリツイートしていたのもその一環だ。

面白いのが、それをきっかけにアンチがファンとなったケースもあるというところ。「好きの反対は無関心」とはよく言われているように、アンチによる中傷は、好意の裏返しであるといったケースも多い。

「自分は持っていない、できない。けれど、マドジャスは持っている、できている。ずるい」

そうして、その感情は中傷に形を変えるのだ。しかし、その欲求不満な箇所をなでてあげれば、その人の承認欲求は満たされ、感情のベクトルが180度変わるといった具合だ。釣った魚に餌を与えなければ逃げられるの逆で、釣りに行ってきちんと餌を与えれば懐いてくれる。そんな現象を肌身に感じた瞬間だった。

アンチにかまう時間があったら、好きな人と過ごしたい

けれど、この際はっきり言おう。

もう、それさえも、面倒くさい。

前回の記事で綴ったが、精神のバランスを崩したことで自分にとって本当に大切なものを見つけた私は考えた。

「私はマドカ・ジャスミンとして顔出しもしている、人から見たら尖った言動をしているらしい、それが鼻につく人も世の中にはたくさんいるらしい」

「でも、その人たちは知人でも何でもない」

これが顔見知りなどだったら話は別。

だけど、相手はたかがネット上のアイコンと簡単なプロフィールでしか、その生存情報を確認できない存在だ。そんな相手にいちいち感情を揺り動かされ、時には時間を使うなんて、こんなにも愚かで無駄な行為があるかと

すべての人に受け入れてもらうことなんてできない。だったら簡単な話、アンチに怒る時間があるなら好きな人に「好きだよ」と言っていたい。アンチの言葉に悩むなら友達と笑い合っていたい。アンチの攻撃に悲しむなら家族と穏やかな気持ちで過ごしたい。だって、そのほうが何億倍も良いに決まっている。

時は金なり。現代は特に、時間こそが最大の資産だ。

お金で考えるとわかりやすいが、ほとんどの人は、自分の好きなものや人にお金を使うのは投資だと考えている。逆にどれだけ少額だろうが、自分が嫌だと思ったり、納得できなかったりするものにお金を使うのはストレスの元凶にしかならない。

時間も同じで、楽しい、嬉しい、幸せといった“正の感情”にいくら時間を割いても苦ではない。それどころか、何倍もの利益となって自分に返ってくる。

時間は有限だ。長くとも90年前後の人生だとすれば、“負の感情”に割く3分すら愚行の極み。それなら、“正の感情”に一分でも、一秒でも多く時間を割くべきなのだ。

批判は見るべきだが、中傷は存在させなくていい

「アンチも養分だから~」という意見もあるが、養分にだって質があるのを忘れていないだろうか。同じ養分でも、正の感情と負の感情のどちらに起因するものがいいかと言えば、誰もが前者と答えるだろう。

というか、他人にとっては養分かもしれないけど、私にとってはアンチなど薬にもならない毒でしかない。それなら、飲み方を考える以前に「飲まない」の一択だ。

日本人の国民性なのか、「結果を残すには苦痛が伴う」「持たざる者は持っている者を攻撃していい」といった、いわゆる“出る杭は打たれる”の価値観から、アンチとの付き合い方を深く考え込みすぎてしまう人もいる。

が、そもそもそんな前時代的な思考を捨てればいいという簡単なお話でしかない。SNSでは、ナントカ2.0などの人間アップデート論が叫ばれているけれど、そんなもので人が変わったらアンチなんてとっくに全滅しているはずだ。

人の見方を変えるよりも、自分の見方を変えたほうが早くて気楽だ。そう、批判は見るべきだが、中傷は見なくていい。見ないものは存在していないのと同じ。

つまり、中傷は存在させなくていい

アンチをミュートしたら良い連鎖が起こり始めた

その考えに行き着いた私が、まず行ったのは、クソリプや明らかな中傷ツイートのミュート。「存在させない」を形から入った。

正直、最初のうちは「こんなの逃げてるのと同じだ……」なんて躊躇もしていたが、慣れると驚くほどサクサク行える。何よりも、清々しい。

ふと思い立ち、アンチのアカウントを見てみれば、私以外に対してもこれでもかというくらいに中傷を繰り返していた。彼・彼女らは、私を叩きたいのではない。“誰か”に当たり散らしたいだけなのだと腑に落ちた。

私を苦しめていた中傷は、「たまたま」私に向けられただけだったのだ。今までこんな一時的な他人の感情に振り回されていたのかと思うと、自分が情けなくなるほどだった。

そう考えるようになると、良い連鎖が起こった。中傷を存在させないようにすると、周りに対する感謝がどんどん目立つようになる。前よりも、自分の投稿に寄せられる前向きな意見が目立つようになるのだ。別に前向きな意見が増えたわけではなく、その数は以前からの数と大差は無いが、中傷を存在させないことでよりそちらに意識を向けやすくなったのだと考えられる。

感謝されたら、感謝で返す。「ありがとう」は、たった5文字で相手も自分もすごく幸せになれる最強の言葉なのだ。

人生は“認識”によって構築されている

マドカ・ジャスミン

よくよく考えてみれば、私は今までこの「ありがとう」よりも、中傷ばかりにフォーカスしていた。肯定してくれていること、認めてくれていること、感謝されることよりも、中傷ばかりに目が向き、真に受け、攻撃的になるという悪循環。なんて浅はかなんだろう。

人は良い事を偶然、悪い事を必然ととらえる傾向にある。でも、実際は逆だ。良い事は必然、悪い事は偶然。良い反応は必然で、中傷は偶然でしかない。良い反応が白いキャンバスだとすると、中傷はたまに垂らされる黒いインクだ。そんなもの、また白いインクで塗りつぶしてしまえばいい。白よりも黒が強いだなんて、一体誰が言ったのか?

現在進行形で中傷に悩んでいる人がいたら、このことを常に頭に入れておいてほしい。中傷なんて、ただの偶然。偶然に思いを馳せていいのは、恋愛でだけだ。

中傷以外の物事でも、認識しなければ存在しない。嫌なことは、自分が認識しなければ“無い”。だとすれば、人生は“認識”によって構築されているそれなら、楽しく幸せな認識で人生を謳歌していくべきだ

“マドカ・ジャスミン”は、そう思い、信じて、今日も生きている。

P.S.
先日、高校時代に受けた中傷をたまたまインターネットで発見した。一応、高所得者家庭で育ったのにも関わらず、貧乏家庭と記されていた。中傷には、まったくもってエビデンスがない。改めてそう実感する一件だった。以上。

マドカ・ジャスミンさんについてのアンチコメント