「あの夜、私は感染した。」と性感染症(STD)にかかった経験をブログにつづり、大きな反響を呼んだマドカ・ジャスミン。なぜ彼女は顔出しで、性について発信しつづけるのでしょうか。自身の表現活動にかける覚悟と自分に課したルールについてつづってもらいました。 

若い女性という価値を切り売りして生きてきた

良くも悪くも、“性”を扱う仕事は注目されやすい。無論、ライターであり、エバンジェリストという肩書きで性に関するコンテンツを数多く発信している私もそうだ。

Twitterを本格的に稼働し始めた当初は、合コンコンサルタントと名乗り、日々体験していた男女のアレコレを鮮明に綴っていた。当時、私は19歳。顔出しをした若い女性がそういった内容を綴るだけで、フォロワーはどんどん増えていった。ある種の見世物小屋状態だったと、今ならそう思える。

当時の自分もそれに気づいていなかったわけではない。むしろ、強烈なまでに旨味をそこに感じていた。その是非はともかくとして、この社会では若い女性が大きな価値を持つことを昔から知っていた私は、それを逆手にとって今まで生きてきたと言っても嘘にはならない。

もしかすると、「若さの切り売りだ!」なんて言われるかもしれないが、たとえ切り売りしたものでも、十分なリターンがあるならば、それも立派な若さの使い方だ。

Twitterでの発信内容もまさにそれだった。

自分としては当たり前に抱いている「セックスしたい」といった欲求を表現するだけで、「俺とシよう」「ブスがよくそんなことを言えるな」「赤裸々すぎる」など、かなり品のないものから批判的なものまで多くの反応を得られる。

日常における性体験……たとえば、良かったセックスの内容を少し細かく綴っただけで、またフォロワーが増える。フォロワーが増えれば、新しい仕事の依頼につながる。何とも現代的で簡単な方程式だった。

私が自分自身に課した2つのルール

しかし、合コンコンサルタントとして、性についての発信を始めた時から、私は今も変わらないルールを設けていた。

それは、「男性向けAV関係の仕事はしない」「男性視点ではなく、あくまで女性視点で性を表現する」の主に2つ。たとえば、仕事の依頼でも、男性向けのAVのレビューを書いてほしいというものだったとする。私は自分のルールに則り、その依頼は請けない。逆にレビューするのが女性向けAVであったとすれば、即座に請ける。この違いだ。

正直な話、こんなルールを設けないほうが多くの認知や利益を得ることができる。この社会では、男性向けに女性の性を商品化したコンテンツのほうが圧倒的に多いからだ。

ではなぜ、私がこのようなルールを自分に課したかというと、第一には自分の立ち位置を確立するためだった。

“性のプロフェッショナル”と聞いた時、まず想像するのは、婦人科医やAVや風俗など性産業の関係者ではないだろうか。しかし、私はどちらにも当てはまらない。となると、自分の中に軸を作らなければ、性について何か発信したり、意思表示したりしたところでただの一般人のつぶやきにすぎず、お遊びにしかとらえられない。

「ただの素人が偉そうに何を言っているんだ」といった見られ方をするのだけは避けたい。であるならば、最初から「私は一女性としての意見しか言わない」と表明しておく必要があった。

ここで「でも、計算してフォロワーが増えるような発信もしていたのでは」と疑いを抱いた人もいるかもしれない。だが、男性に悦ばれることを狙って発信をしていたのではないということは断言できる。一女性としての意見や経験談を発信していた結果、反応も多くなり、私自身がそこにチャンスを見出したに過ぎないのだ。

男性の悦びを考え、フォロワーを増やすことだけ考えたら、裸体を晒し、より一層卑猥な内容にすればいい。私はそれをまったくもってしたくなかった。

大人になるにつれ大きくなっていった私の中の違和感

マドカ・ジャスミン

ルール設定をもっと突き詰めれば、何を思って今現在に至るまで、女性視点での性を発信することを生業にしようとしたかという疑問にたどりつくだろう。

思春期に避妊の大切さを説いてきた父親に育てられたこともあり、私にとって、性は恥ずかしいことでも、隠すべきことでもなかった。家庭でも学校でも、いつもあっけらかんと性について話していた記憶がある。

思春期になると、男子がわざとらしく女性の体のメカニズムについて質問してくることも多い。「潮吹きってするの?」「オナニーしてる?」「セックスしたいと思う?」といった具合だ。

大抵、それらは知識欲からの質問ではなく、そうした質問を投げかけることで女子を困らせたいという「からかい」が目的だ。だけど、私はそうしたからかい目的の質問に対しても、まるでレクチャーするように自らが学んだ知識で受け答えをしていた。それも至極真面目に。

そんな私に男子たちは、奇妙なものをでも見るような視線を浴びせてきたが、次第にこういう認識に変わっていった。「マドカはそういう知識に詳しい」「何でも話せるし、相談できる」と。

でも、大人になるにつれ、そうした私の態度や感覚が周りの女性とはかなり異なっていることに気づくと、その気づきは私の中で大きな違和感となっていった。なぜ、女性が性について語ることがタブーのようになっているのだろうか、と。

男性の友人が多いのもあり、私はよく男友達たちの話の輪に混ざっていたが、彼らは何も考えず、何の葛藤もなく、明るく性についてを話題にしていた。昨日誰とセックスした、狙っている女の子とセックスしたい、最近オナニーしてない、それぐらいフランクなものだった。

打って変わって、女性同士だとそのような話題になっても、どこか後ろめたさや恥ずかしさを孕んだ物言いになる。密かな欲求は、2人きりになる場面で打ち明けられることも多かった。

自分自身の身体や心に関する話である筈なのに、ネガティブな雰囲気に包まれている会話。そこに対する違和感は中学・高校時代はもちろん、高校を辞めてからも拭えるどころか、どんどん顕著になっていった。

男性の「したい」は許される。でも女性は?

一方、SNS上では私と同じような感覚の女性が多いのだと感じた。性体験を通しての悩みが、日々言語化されてインターネットの海に放出されている。匿名性という仮面が、普段は抑圧されている彼女たちの欲求を豊かな表現へと変えさせるのかもしれない。

自分も同じように発信していくにつれ、その内容への共感の声が寄せられることが多くなっていった。時には、女子高生の子からの悩み相談のDMまで届くようになった。病院へ行けば一発で解決できるような内容から、パートナーとの性生活について、性経験が無いのが恥ずかしいなど、その内容は人それぞれ。

そんな彼女たちの声や思いを知るにつれ、私は思った。女性は、未だに表立って言えないのだ。“性”についてを。

言えない、というよりは、言ってはならない、という風潮が現代もまだ蔓延(はびこ)っているらしい。男性は大きい声で性を語れる。なのに、女性が同じ内容を語れば、途端にバッシングされる。

男性の「セックスしたい」には何もお咎めが無いが、女性の「セックスしたい」には「いやらしい」「ビッチ」「淫乱」といった言葉たちが集中砲火される実情が私は悔しくて堪らなかった。

そう、私はSNSを通して気づいたのだ。私が昔から抱えていた違和感の正体は、「女性は奥ゆかしく、性のことなど口にしてはいけない」といったような古臭いジェンダーに対する抵抗だったと。

自分ルールの奥底にあるもの

自分が一歩先に行っていたなんておこがましい表現はしないが、少なくとも今の女性が自らの性について語れない状況は不健全でしかない。だがしかし、いきなり女性たちに「性を語れ!」なんて強要をするつもりもまったくない。強要はしないけど、「あなたが性について考えたり、悩んだりするのは罪ではない」と背中を押すのは許されるだろう

それこそが、マドカ・ジャスミンが設けた自分ルールの奥底にあるものだ。

最初は、自分の立ち位置の確保が理由だった。それは否定しない。けれど、その立ち位置だったからこそ、女性に纏わりついているしがらみを認識し、解く手助けをしたいと思えた。単なるライターからエバンジェリスト(伝道師)という肩書きに変えたのも、自分が知った情報で誰かを導ければと考えたからだ。

立ち位置の確保のために決めたルールが、いつの間にか自分の表現活動のポリシーとなっていた。

女性でも、性について発信していい。悩んでいい。考えていい。そうやって、承認するだけで背中を押される人がいる。私は自らの性についての発信から、そのことを知った。彼女らは、昔からのろくでもない価値観に縛られ、口をつぐんでいるだけだ。

直接口を開けさせられなくとも、開けるきっかけは与えられる。私は他人を操作できないし、どんなに偉い人が何を言おうとも、自分の言動は自分でしか決められない。性についてを無理に話せなんて絶対に言わないけれど、話してもいいと肯定してあげるのは許されていいはず。

女性だって、性に惹かれたり、語ったり、悩んだりしたい。性は男性の欲求を満たすだけのものじゃない。女性だって、自分たちの欲求は自分たちの思った通りに満足させたい。

そうやって、胸を張って言える手伝いをしたい。

自分の欲求に後ろめたさや悩みを抱き、顔を曇らせている女性がいる限り、それが、私が今までもこれからも、“性”を扱い続ける確固たる理由であり、ルールの根幹にあるものだ。