最終的にいい話にすると決めている話

心ならずも偉い人の話を長々と聞く場面はどんな労働者にもやってくる。自分のようなフリーランスだろうが、新入社員だろうが、定年間近の古参社員であろうが関係ない。働いていれば、働いているだけ、偉い人の話を聞く場面がやってくる。うわ、偉い人の長い話が始まりそうだ、と勘付いた時点で、時すでに遅し。スタートしてしまったそれは、なかなか終わらない。終わらせないことに命をかけている感じすらする。そろそろ終わるかなと思ったら、CM明けで頭から再放送が始まってしまうようなスケール感。長年、どうやったら話の腰を折れるだろうかと模索してきたのだが、あちらは、まさか自分の話が、腰を折られるべき話だとは思っていない。

2年ほど前に、ある取材で高校の卒業式に出席することになり、校長先生が生徒に贈る話を20年ぶりくらいに聞いていた。そうか、こんなに面白くない話があるものか、と驚く。自分は、こんなに面白くない話を聞かされていたのか、と嘆く。「これからの人生、たくさんの壁にブツかると思います」から始まる15分のスピーチこそ、今、私たちがぶつかっている壁そのものではないかという気がしてくるが、高校生は黙って聞いている。なぜ面白くない話かを真面目に分析すれば、最終的にいい話にすると決めている話にわざわざ波を起こしているからである。

どうせ、壁にブツかった時にはこの高校で出会った仲間のことを思い出してください、って言うんだろ。
「そんな時にはこの高校で出会った仲間のことを思い出してください」
で、次はあれだろ、いつだって遊びにきてください、って言うんだろ。
「いつだって遊びにきてください、先生たちは待っています」

偉い人の長い話に寛大すぎる私たち

乾杯の挨拶にしろ、結婚式の挨拶にしろ、予測可能な長い話というのが苦手である。かしこまった場での乾杯の挨拶で「えー、こんな私の話なんか聞いてないで、早く飲みたいというのが、皆さんのお気持ちでしょうが」という文言が組み込まれる率は私調べで60%だが、出席者はその場でドッと笑う。こちらは仏頂面だ。特にお酒は好きではないが、こんな時には、そんなアナタの話なんか聞いてないで早く飲みたい、と思う。

その場にいる全員が予測できている話がロングランを続けてしまっている時、その話を遮ることが難しい。一致団結して話をゴールに向かわせれば終電に間に合うのに、語り部がそのショートカットを絶対に許さないから、終電を逃すことになる。終電を逃した人にマイクを向けて、「家、ついて行ってイイですか?」ではなく、「どうして終電、逃したんですか?」と聞けば、その場を仕切っている人の話が異様に長かった、という絶望的な夜を迎えている人が見つかってしまうのではないか。

私たちは、偉い人の長い話に寛大すぎる。偉い人が偉いのは、営業成績がいいとか、黙って座っていれば勤続〇年で出世できるからとか、それなりの理由があるのだろうけれど、いずれにせよ、全方面に対して話が長くなることを許容したつもりはない。尊敬はするし、その仕事をしている姿には憧れるけれど、尊敬や憧れに「つまらない長い話を許容する」は含まれていない。

世の中で一番閉鎖的な空間は社長室

ある建築家と話をした時に、「武田さん、世の中で一番閉鎖的で窮屈な空間はどこだかわかりますか?」と聞かれた。少し考えて「えっと、そうですね、すぐに帰りたくなるように、客同士の位置をわざと近くしているオシャレなカフェでしょうか?」などと答えていると、「社長室です」と断言してくる。

建築家の言い分はこうだ。社長室に入ってくる人というのは、「ちゃんとした話」しかしない。あのプロジェクトの進捗がどうなっているかとか、採用面接で何人に絞ったとか、来月の収支の見込みだとか、社長室のドアをノックする前に「この話を社長にするぞ」と決め込んで入ってくる人ばかりになる。そんな話ばかりだと社長も飽きてしまうから、フランクに話せよ、と促してくるはずだが、促されるとフランクからもっと遠ざかる。「社長、聞いてくださいよ、昨日スーパーで、お一人様一品限りの商品を2つ買っていったヤツがいましてね」と話し始める勇気を持てない。結果、「ちゃんとした話」ばかりになる。

自分のいる場所で交わされる話がすべて「ちゃんとした話」になるというのは、とっても息苦しい。社長室から抜け出た誰かは、そこらへんにいる人に話しかけて「お一人様一品限りの商品を2つ買っていったヤツ」の話をすることができるが、社長は、もう次の「ちゃんとした話」を聞いている。自分が1から10まで話をしたい時に、新入社員は2くらいで誰かから突っ込まれる。中堅社員は5くらいで突っ込まれる。幹部は8くらいまで話せる。社長は10までいける。つまり、最後まで話せる。偉い人というのは、自分の話を最後まで聞いてもらえる率が高いのである。

うまく話の腰を折る

おもしろくない話の逃げ道として、「武勇伝」が登場する。「おもしろい話」と「武勇伝」が絶妙に絡み合ったストーリーを、私自身はほとんど浴びたことがない。「おもしろくない話、ときどき武勇伝」ならば、いくらでも経験してきた。「これはもうどうしょうもないってことになってね、頭を下げに行ったわけさ、そしたら、常務、なんと言ったと思う?」。突然のなぞなぞタイム。「なんでしょうね」。なぞなぞに答えない私に不満顔だ。そこにいた、もう一人が言う。「わざわざ来てくれたから、許すってことになったんですかね」。「違う!」。なぞなぞ不正解からの怒声。理不尽の発芽。始まるぞロングラン。「一回ではダメで、通いつめたら許してくれた」という割と無難な話を、焦らしながら話し、ロングランに持ち込むのだった。

以前、平田オリザさんと対談した時に、平田さんが「僕が、今やっているコミュニケーション教育の最大の目的の一つは、『うまく話の腰を折る』ということです。そこで冗長率は重要なんです」と言っていた。平田さんの言う「冗長率」とは「会話や文章の中に、意味を伝達するためとは関係のない無駄な言葉が、どのくらい含まれているのか」というもの。先の社長室の例で言えば、そこで飛び交う話には無駄な話が存在していない。全部、ちゃんとした話だ。長いのに無駄がない。話の腰を折ってはいけない覚悟で入室した人が、社長を上機嫌にさせている感じ。折るにしても話の腰ではなく、話の爪先くらい。

偉い人の長い話を減らしたい

幸いにも上司も部下もいない仕事だし、ともすれば上司・部下的な関係にもなりがちな書き手・編集者の関係も、力関係で動くような付き合い方はしていないつもりだ。結果、日頃、誰とでもほとんど無駄な話しかしてない。無駄な話は、引き際が素早い。そろそろいいか、と引き下げる。次の無駄な話をする。次の話がなければ黙る。ロングランにならない。

偉い人というのは、無駄で長い話をする時に断らない。無駄話を価値化し、そして武勇伝を常態化する。話をどこまでも続けていく。私たちはもっと、偉い人に向かって、「その話、つまらないですよ、まったく、長すぎやしませんか」と言うべきなのだろう。でも、高校の卒業式がそうだったように、私たちは教育の場で、偉い人のつまらない話を黙って聞くという訓練を済ませてきた。

「その話、面白くないですよ」と伝える勇気をそれぞれが持たなければ、無駄な時間が量産されることになる。どうやったら彼らに気づいてもらえるのだろう。自分は「仏頂面」という直接的な技を駆使してきたのだが、さほど効果は感じられない。「感じの悪いヤツ」という評価を頂戴するだけだ。みんな、それぞれの生活に忙しいのだから、偉い人の長い話を少しでも減らしたい。具体案はまだ練られていないけれど、自分の一つの目標ではある。

<イラスト/室木おすし>

この記事を書いた人

武田砂鉄

武田砂鉄(たけだ・さてつ)

1982年生まれ。東京都出身。大学卒業後、出版社で主に時事問題・ノンフィクション本の編集に携わり、2014年からフリー。『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす 』で第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。「cakes」「文學界」「VERY」「SPUR」「暮しの手帖」など多数の連載を持ち、他の著書に『芸能人寛容論』、『せいのめざめ』(益田ミリ氏との共著)、『日本の気配』などがある。

Twitter:@takedasatetsu