もしも、この記事を読んでいる君が、「会社の上司や先輩は自分を育てようとしてくれている」なんて思っているとしたら、それはあまりにもお人よしだ。ナイーブともいう。

ちなみに、「ナイーブ」はほめ言葉ではない。辞書を引くと、「単純な、世間知らずの、だまされやすい」「無邪気な」「幼稚な、素人の」「うぶな」といった語義が並んでいる。

「君はナイーブだね」といわれたら、それは「純粋だね」とほめられたのではなく、「幼稚だなあ」とあきれられたと受け取るべし。

「若い才能は早めにつぶしておかないと」と笑うベテラン

話を戻そう。

上司や先輩たちは若手を育てようとするどころか、むしろつぶそうと考え、行動する機会をうかがっている。中には真剣に若手の育成を考える上司・先輩もいるが、それは少数派だろう。

いや、正確には一人の人間の中に「育てよう」という人格と「つぶそう」という人格が共存していて、その時と場合に応じてどちらかが顔を出すと考えるべきかもしれない。会社に限らず、スポーツのサークルであろうとご近所づきあいであろうと、人間の集団ではどこでも見られることである。

「若い才能は早いうちにつぶしておかなければなりませんからね。若い芽は摘んでおかなきゃ」

以前、インタビューしたとき、篠山紀信はこう言って笑った。

今、日本の写真家で、実力、人気、知名度においてナンバーワンは篠山紀信であろう。アイドル、ファッション、クルマ、大相撲、歌舞伎と、そのテーマは幅広い。建築家の磯崎新と世界の建築を巡り歩く写真集も出しているし、コマーシャル写真だけでなく芸術性の高い写真も撮る。樋口可南子や宮沢りえなど、著名女優のヌード写真集も刊行してきた。1940年12月生まれで現在77歳(2018年11月時点)。喜寿とは思えない活躍ぶりだ。

その半世紀以上にもわたるキャリアの中で、篠山紀信は常に新しい技術やスタイルを積極的に取り入れてきた。そこがいわゆる「巨匠」然としたベテラン写真家とは違うところだ。

たとえば複数のカメラで同時に撮影した写真を合成する「シノラマ」がそうだし、デジタルカメラの使用も早かったし、大判ポラロイド写真での展覧会も早かった。ときには「篠山紀信」ではなく「シノヤマキシン」や「digi_KISHIN」とも名乗った。

私にAKB48の存在を最初に教えてくれたのは篠山紀信だった。「今、秋葉原で若いアイドルの写真を撮っているんですよ。これがすごいんだ」と、当時まだ世間ではほとんど話題になっていなかったAKB48について篠山は熱っぽく語った。

私は半信半疑だったが(秋葉原? 行けば会えるアイドル?)、その後の展開は皆さんご存知の通りだ。

篠山紀信はメキキである。そのメキキが「若い才能はつぶしておけ」と言ったのである。もちろん「冗談だよ」という口調で。「アハハハ」という豪快な笑いも忘れず。しかし、冗談には半分の真理がある。

なぜ篠山は「シノヤマキシン」名義を使い始めたのか

篠山紀信が「シノヤマキシン」という名義を使い始めたのは、2000年ごろからだった。ちょうど還暦のころである。ヌード「Accidents TOKYO」のシリーズや「アカルイハダカ」のシリーズはこの名義。堀北真希と黒木メイサを撮った傑作『missmatch』(2006)もシノヤマキシンとしてだった。

なぜカタカナで「シノヤマキシン」なのか。それは、その頃若手として注目を浴びていたホンマタカシを意識してのことだった。

ホンマは1962年生まれで篠山の22歳年下。篠山と同じく東京都出身で(篠山は新宿区、ホンマは文京区)、これまた篠山と同じく日大芸術学部在学中にライト・パブリシティ(広告制作会社)に入社という経歴の持ち主である。1999年には『TOKYO SABURBIA 東京郊外』で、写真界の芥川賞とも呼ばれる木村伊兵衛賞を受賞した。

標準的な露出よりもひと絞りぶん明るくしたようなホンマタカシの風景写真は、郊外の乾いた空気まで写り込んでいるようで、多くのファンを惹きつけ、写真家志望の若者たちに影響を与えた。そこを篠山紀信は見逃さなかった。「シノヤマキシン」を名乗って「オレにも撮れる(ただし、もっと上手にネ)」と宣言したのだ。

篠山紀信がホンマタカシをまねてシノヤマキシンと名乗ったことの、3分の1はシャレだろう。次の3分の1はホンマの技術やスタイルを盗むため。盗むといって悪ければ、「取り入れる」とか「引用する」といってもいい。そして残りの3分の1は、若い才能に自分のポジションが脅かされるのを未然に防ぐという意味があっただろう。

ただ、篠山紀信自身が自覚していたのはシャレとしての3分の1だけで、技術やスタイルを取り入れることや、ましてポジションを守ろうとすることは無意識のものだったのだろうと私は推察している。

無意識とはいえ、親と子ほど年齢が違う相手を「つぶしておかなければ」とは。大人気ないと感じると同時に、その世界で常にトップに立つというのはこういうことなのか、と私は心底恐ろしくなった

若い才能と出会った時、ベテランはどうするか

カメラマンのような表現者の世界に限らず、どんな世界でも若手は「新しいもの」を持っている。新しいものとは、情報だったり、ノウハウだったり、システムだったり、モノの見方・考え方だったり、いろいろある。

自分にない「新しいもの」を持った若手と遭遇したとき、ベテランがまず考えるのは、将来、その若手が自分を脅かす存在になる可能性があるかどうかだ。

その答えが「YES」の場合、ベテランが採る選択肢は3つ。それは、「応援する(育てる)」「手なずける」「つぶす」だ。

ただし、応援するというのは条件つきだ。「自分の地位を脅かさない限りにおいて」である。純粋に育てるというよりも、仕事を紹介したり、アドバイスしたりすることで自らを優位な立場に置こうとする意識が強いと考えたほうがいい。

その若手を利用することで自分にプラスになると判断すれば手なずけて子分にしようとする。

そして、自分の地位を脅かすと考えたら、つぶそうとする。

ベテランは若い力を恐れているのだ。自分がこれまで築き上げてきたものを脅かされることを怖がっている。

写真家であれ、小説家であれ、ミュージシャンであれ、表現者は一度スタイルを確立すると、それをかたくなに守ろうとしてしまう。仕事の依頼者やファンもそのスタイルを求める。そして同じスタイルを繰り返すうちに緊張感を失い、作品は生命力を失う。「マンネリ」と呼ばれ、世間から飽きられる。だから、なおさら若い力の台頭は脅威なのだ。

表現者だけに限った話ではない。ビジネスの世界でも同じだ。人は一度成功してしまうと、その経験に縛られてしまう。同じやり方で次も成功するだろうと慢心しているのだが、心の奥底では「違うやり方を試して失敗したらどうしよう」と怯えているのだ。

かくして経験を積んだベテランほど保守的になり、自分の仕事のやり方に固執する。自分の立場を守るために若手をつぶそうとする。

しかし、篠山紀信がホンマタカシをまねた例に見るように、本当に優れたベテランは、若手からその「新しいもの」を盗む。まったく臆面もなく。盗むといっても、奪い取るわけではない。若手の手元にある「新しいもの」はそのままに、それと同じものがベテランにコピーされる。

それだけではない。ベテランには若手にない「経験の蓄積」がある。だから、「新しいもの」を使いこなすスキルはベテランのほうが上だ。そして、「新しいもの」を使いこなすことによって、ベテランはそのスキルをさらに高めていく。こうしてただでさえ強いベテランは、ますます強くなっていく。

くどいようだが、「若手はつぶさないと」と笑っていった篠山紀信のすごさは、若手の才能を瞬時に見抜き、そのテクニックを取り入れて自分のスタイルを更新していくところにある。「シノヤマキシン」なんて冗談のような名前で、新しい表現に挑戦する。

本当の天才は何歳になっても進化し続ける。しかし、凡庸な人間は、ただひたすら若手をつぶそうとするだけだ。

「君のためを思って」などという上司を信用してはいけない

改めてサラリーマンの世界を考えてみよう。よくあるのが、アイデアの横取りだ。若手が考えたアイデアについて上司に相談すると、いつの間にか社内ではそのアイデアが上司オリジナルのものということになっている。

そして、「君の思いつきはよかったけど、あのままでは使えないから、オレが直して上に通してやった」などと上司は言う。

あるいは会議で若手が企画を発表する時など、事前に上司に話を通しておかないと、上司がその企画をつぶしにかかることなど日常茶飯事だ。上司は自分の頭越しに何か言われると、面目がつぶされたと感じるのだ。

失敗は部下のせい、手柄は自分のおかげ、というのが彼らの流儀だ。なにしろ彼らは何年も会社の中をそうやって生きのびてきたのだ。入社したばかりの若手をつぶすことなんて、赤子の手をひねるより簡単だ。もちろん、現実にはそんな上司ばかりではないけれど……。

「君のためを思って」などという上司や先輩を信用してはいけない。もし彼が本当にそう考えているなら、そんなおためごかしはいわず、淡々と手助けしてくれるだろう。人はうしろめたい時に言い訳するものだ。

もし上司や先輩につぶされそうになったら、まずは距離を置くこと、そしてスルーすること。正面から闘おうなんて思ってはいけない。彼らは二枚も三枚も上手だ。

篠山紀信がシノヤマキシンを名乗ろうと、ホンマタカシは淡々と自分の写真を撮り続けた。山岳写真など篠山紀信には不可能なジャンルも開拓した。いくら天才の紀信でも、重い機材を背負って高い山に登るのは年齢的に無理だ。

私が上司につぶされそうになったのは28歳の時だった。文字どおりの閑職に追いやられた。仕事がないのはつらいものだったが、2年間耐えて、その間に勉強した。そして30歳の時に逃げた。

誰かがいったよね、逃げるのは恥ではないと。危ないと感じたら逃げてほしい。

私は逃げたから生きのびられたのだから。