2017年、11月某日。
得意先に向かう途中、私は突然、足が動かなくなった。
「動かない」というのは、比喩ではない。文字通り、足が一歩も前に進まない状態になったのだ。 日比谷駅で。
肉離れをしたわけでもなく、脚の神経が故障したわけでもない。
ただ、PC上で強制終了が選択されたように、「歩くのやーめた」という号令が脳に降り、それきり司令塔は機能しなくなった。
その数分前まで自分を苦しめていた「彼氏が欲しい」「給料上がれ」といった煩悩のダムは、静かに決壊した。
かすかに電車がやってくる音がして、「黄色い線の内側をお歩き下さい」という駅員の怒号が飛ぶ。
ギリギリのところで車両はかわしたが、はたして悟る。
「これはきっと、しばらく何をしても動かねぇな」
予想は的中した。
その後も数十分間、靴の裏が地面に接着剤で固定されてしまったような状態が続く。
狭いホームで、通勤バッグを抱えたアラサー女が一時停止する光景は、きっとなんともシュールで。しかし、東京の中心地でそんなことは、誰も気には留めなかった。
まるで一人きりでショートコント「マネキンチャレンジ」をしているみたいに。
芸能活動一本から会社員との兼業へ
2015年、私はこれまで芸能活動一本で進んできた道の途中、会社員になる選択をした。
単純に、先行きが見えないタレント業に不安を感じたからである。
14歳から女優として、20歳を越えてからはアイドルグループSDN48のメンバーとして活動したが、卒業後はやりたいことが見つからず路頭に迷っていた。
飛び込んだ企業では、WEB媒体のライター・編集者・広告の営業担当として働かせてもらった。WordやExcel、PowerPointの使い方も知らない私に、周囲はよく親切にしてくれたと思う。
10代の頃から芸能界でサバイブしてきた自分にとって、会社員生活は「安心保証」があり、決まった額がもらえる楽園である。
「アイドル卒業後セカンドキャリアを歩む女性の中では、うまくやっているほうなのでは」と、しばらくは優越感に浸っていた。
美貌を武器に西麻布で小遣いをもらい「ギャラ飲み」に励むタレント仲間も中にはいたが、私は「自分の足で立っている」ことに優越感を感じ、陶酔した。
卒業後は常に経済的な問題と隣合わせだったが、今度からは確実に自分で収入を得ることができる喜びもあった。
しかし会社員生活を送り、しばらくすると、今度はメキメキと「仕事ができる人間だと思われなければ」、「ハイスペ男性と付き合わなくては」という煩悩が自分を蝕むようになる。
アイドルとしてはセンターを取れなかったが、「一般職で才能が開花し、『キラキラOL』になっちゃった!」というシンデレラストーリーを、早急に他者へ見せつけたかったのだと思う。
そのため毎日、無理やりにハイスペック男性とデートを組んだ。
身体が追いつかずとも男性とのご飯に行き続け、翌日はむくんだ顔で出社して牛丼片手に仕事した。
得体の知れないストレスで、20kg太った。
「人生が詰んだ」と感じた日のこと
精神は、限界のところまで達していた。
生活習慣からくる不摂生で顔はむくみ、髪はいつもパサついている。さらに酒の飲み過ぎで、いつも腹が出ている。
しかし、わかっていても、止められない。
そんな時でもスマホで自撮りをする時は、顎を引いて小顔に見せるテクニックを取得した。
人生においてすべてが、姑息でごまかし上手になった。
気がつけば私は、前述の通り足が動かなくなり、心療内科に通うようになった。
それでもなお、私は「なぜ自分はこんなことでへこたれているのか? 芸能界でもっと過酷な経験をたくさんしているのに」と不思議に思っていた。
「先生。私ね、アイドルとして武道館にも立ったことのある人間です。こんな、ちょっとしたストレスで自分をこじらせるわけがありません」
当時のカウンセリングの録音を聞き直してみても、信じられないくらい傲慢なことを医者に言っている。
「平気です」
得々とそう語る私に、医者は言った。
「まず治しましょう。その、早口を」
診断は、正式な病名がつくものではなかった。あらゆる将来への焦り、不満が重なり「一時的にパニック状況が生まれて歩行困難になった」という見解だった。
いよいよ朝も起き上がることができなくなり、会社は辞めざるをえなくなった。
生活の保証もない、仕事もない、彼氏もいない、貯金だってほとんどない。
そこそこ可愛いと思っていた自分は、ある日、いきなり世の中から弾き飛ばされた。
残ったのは、手元にある10万円。
「あ、人生が詰んだって、こういうことを言うんだ」。
自分の弱さを呪った。
姉から提案されたササポンとのルームシェア
8歳離れた姉から電話があったのはちょうどその頃で、収入が不安定になった私に、「ルームシェアをしたらどうか」という提案を持ちかけてきた。
一緒に住む相手は、姉が「ササポン」と呼ぶ人で、一般企業に勤める50代のサラリーマンだという。
姉も20代の頃ルームシェアでお世話になった人で、あらゆる事情が重なり一軒家に1人で住み部屋を持て余しているため、これまで多くの人とシェアしている人だった。
姉は、その一室がたまたま空いている情報を聞きつけ、いくばくか家賃を払い住まわせてもらえばいい、と言う。
ただし、定員は1名。家主と1対1である。
齢29にもなり、見ず知らずのおっさんと住むほど自分は落ちぶれていないと思い、私は拒否した。
それでも姉は頑なに、「今のお前は誰かと一緒に住んだほうがいい。とにかく話し相手が必要だ」と断言する。
実際ひとりで住み続ければ光熱費はバカにならないが、「今度引っ越す時は、誰かと結婚する時」というプライドも常々あったので、悩んだ。
しかし、日々の生活を続けるうち貯金が底をつき、生活費は軽減せざるをえない状態になった。
難しいことを考えることが億劫になり、私は決断をした。
「ササポン」57歳との、奇妙な同棲生活をスタートさせてみたのである。
こうして57歳サラリーマンとの同棲生活が始まった
今年5月、ある晴れた日のこと。私は一人暮らしのアパートを引き払い、ササポン邸のインターホンを鳴らした。
彼は仕事に出ており、私はスペアキーを使って中へ入り、指定された6畳の部屋で城作りを始める。
これからどんなことが待ち受けているのか想像つかないが、いよいよ赤の他人のおっさんと共に生活を始めることになった。
その気持ちは説明しようがないが、「結婚前提に誰かと住む」という常識的な枠線を越えてしまったことで、もはやワクワクした感情が芽生えた。
気を遣わなくていいおっさん。
恋人でも家族でもないおっさん。
そんな人と自分が住むことで、どんな変化が訪れるのか。
その日の夜、帰ってきたササポンは中肉中背なで肩メガネ姿で、高くも低くもないテンションで「ただいま」と私に言った。
そのまま2人で食事に行くと、ササポンは終始落ち着いたトーンで会話をする、普通の優しいおじさんだった。
「引っ越してすぐにこんなこと言うのもアレですけど、あたし、結婚相手見つけてすぐ出ていくんで。仕事も頑張るんで」
力みながらそう言う私に、彼は
「頑張ってね。僕あんまり細かいこと気にするタイプじゃないから、適当によろしく」
と、ゆるく言った。その温度感が、すげえ楽だった。
ササポンが弾く「別れの曲」に嗚咽を漏らす29歳元アイドル
日中、ササポンは会社に出かける。
私は自宅に残り、リビングで原稿を書いたり調べ物をしたり、インタビュー資料に目を通して過ごす。
夜になってもだいたい私はリビングで原稿をこなしており、ササポンは帰宅後スーツからステテコに着替えソファでTVを観始める。
原稿のアイデアが湧き出ない時、私はよくリビングで叫喚するが、彼は少しも気にせず、自分で作った塩ラーメンやうどん、市販の寿司などを適当に食べている。
良い意味で、ほっといてくれているのだ。
そのあとドラマやニュースを2人で観て、犯人を推理したり、世間を賑わすニュースについて討論して、解散し別室で眠る。
風呂は共同。互いの食生活や掃除、洗濯には口を出さず、冷蔵庫は上下スペースを分けて使っている。
フリーランスライターとして活動している私は、ありがたいことに少しずつ仕事が増えてきた。
だが、時々ヤバい編集者にぶち当たることもあり、そんな時はササポンが社会人の先輩として助言してくれる。
そして、その後は恩着せがましいことを言ってこず、そのこと自体忘れている。
クラシックをこよなく愛する彼は、休日、ショパンの「別れの曲」をリビングのピアノで弾くこともあるが、私は都度、昔の男との思い出がよみがえり号泣する。
ササポンの調べに耳を傾けながら、フェイスパックを貼り付けて嗚咽を漏らす私の姿は、控えめに言っても死ぬほどブサイクのはずだ。
しかし、ササポンはそれを見てもシレッっとしている。
私は最低限のマナーを守りながら、この赤の他人のおっさんと、少しずつ不思議な絆が芽生えていることに気づいた。
ササポンと接する時は、これまでのどんな男達よりも良い距離感で、決して互いに余計な干渉をせず、楽な自分でいることができる。
これを、おかしい生活と思うだろうか。
取り繕わない自分も受け入ようと思えるようになった
近頃、「拡張家族」というテーマで50人以上のクリエイター達が共同生活を送ったり、赤の他人同士が集合体となって子育てに励んだりする、「新しい家族のカタチ」が増えていていると聞く。
その事象を借りるならば、私とササポンは血のつながりこそないが、確実に家族になりつつある。
肉体関係は一切ない。
そういう愛情は、一切ない。無理。
ところが今までの私の概念では考えられなかった形式ではあるが、私はササポンと程良い距離感で生活していくことを選び、生きることが少し楽になった。
それは、なぜか。
近すぎず、遠すぎない距離感のササポンという他人と過ごすうち、本来の自分を見つめ取り戻し、「他人からの視線」という呪縛から解放されたからだと思う。
これまでは、ハイスペ男性が目の前に勝手に現れて「同棲→結婚する」という物語が勝手に起こり得ると信じていた。
だからこそ、あらゆる男性の前で自分を押し殺し、演じ、相手を立てて必要以上に気を遣った。
だが、そろそろ取り繕わない自分も受け入れてみようかな、という思考に変化していったのだ。
今後の人生は、誰と住み、どのような生活を送り、どのような舵を取るか、今はまだわからない。
きっと、それは私次第。無理をしないでいられる相手を、ゆっくりと見つけたい。
「そんな生活を続けるくらいならば、同棲できる男を一刻も早く探したほうがいい」
そんな意見を私に言ってくれる人もいる。
でも私、その強迫観念でこれまで一度も上手くいかなかったんです。だから、もう、いいんです。そういうのは。
私は今日もうまくいかないことや辛いこと、男の子とのデートで失敗してしまったことがあったとしても、帰り道にはササポンにお土産を買い、我々2人が仲良く暮らすあの家に帰りたいと思う。
アラサーの私が体験中の、ちょっと変わったルームシェア。
ササポンは、今日もきっと、饅頭を土産に持ち帰れば「ありがとう」と言い、ちょっと猫背になりながらユルユルとお茶をすするに違いない。
この記事を書いた人

東京都在住フリーライター/タレント。2005年、ドラマ『野ブタ。をプロデュース』で女優デビュー。数々のドラマ・映画に出演後、2010年、秋元康氏プロデュースSDN48として活動開始。その後、タレント活動と平行しライター業を開始。Webの取材記事をメインに活動し、2015年、NEWSY(しらべぇ編集部)に入社。PR記事作成(企画~編集)を担当する。2018年、フリーライターとして独立。著書に『アイドル、やめました。 AKB48のセカンドキャリア』、『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』がある。
Twitter:@akiko_twins
note:大木 亜希子|note