驚異の新人・藤井七段の登場が記憶に新しいが、勝負の世界である将棋界では、ドラマが常に生まれる。

昨年の秋に公開された映画『泣き虫しょったんの奇跡』の主人公・瀬川晶司六段もドラマを作り上げた一人だ。

日本将棋連盟のプロ棋士養成機関・奨励会を26歳で退会となり、一度はあきらめたプロの門を、戦後初めて実力と周囲の尽力により開いたのだ。瀬川六段はなぜ絶望の淵から這い上がれたのか? 将棋に賭けた、敗北とリベンジの歩みを聞いてきた。

瀬川晶司
瀬川晶司(せがわ・しょうじ)。プロ棋士六段。奨励会を26歳の年齢制限で退会になりサラリーマンとなるも、アマチュアでの成績が認められプロ入り編入試験が認められた。その後、編入試験に合格し、プロになる。

26歳の年齢制限で奨励会を強制退会。すべてを失った

──プロ棋士養成機関の奨励会では、26歳で四段に上がれないと、退会だそうですね。プロへの道が閉ざされるとか。

※将棋の世界では四段以上がプロ。

瀬川晶司六段(以下、瀬川):はい、僕は14歳の時に奨励会に入り12年間、在籍していました。自分は絶対プロになれると信じていたし、なれないと思ったことはなかったんです。でも、三段のままで26歳を迎えてしまいました。

──その時の気持ちは……。

瀬川:ゼロというか、これで終わってしまったな、という感じ。俺はもうダメだ、12年間はムダだった。死んでしまいたい、と本当に思いました。僕には将棋しかなかったし、自分の人生にこんな悲劇的なことが起こるなんて思ってもいなかったので。

──奨励会は年齢制限との戦い? 残酷ですね。

瀬川: 四段になれない26歳の誕生日は、生きながら死を迎えるに等しいんです。それ以前の誕生日は一歩一歩死に近づいていくような恐ろしさです。より可能性が残されているという意味で、奨励会は若いほど格が上。24歳くらいになると、自分の「命」の残りばかりが気になります。

──そんな奨励会時代の将棋はつらかったですか?

瀬川:最初はアマチュアの延長なので楽しかったのですが、友達がどんどんやめていって、将棋がなんだか重苦しくなって…。戦い方が暗くなっていくんです。

──どういうことでしょうか?

瀬川:自分の王将を取られなければ負けはしないので、負けなければいいというゲームになって、相手の狙いを防ぐとか、相手に得意な手を指させないことばかりに気を遣っていました。それは、相手の手をつぶしておくだけの、スカッとしない戦い方。

アマチュアだと自分の得意な戦法で挑みますよね。相手に指されたらそれはそれでしかたない、ということで。

──好きな将棋なのに楽しめなかった?

瀬川:苦しかったですよ。僕は本来、楽しんで指すのが性に合っていたんです。苦しんで指すよりも勢いがあるというか……。そのほうが結果も良くなるのはうすうすわかっていたんですが。

子どもの頃は、純粋に将棋を楽しめていた

瀬川晶司

──では、奨励会に入る前は楽しい将棋でしたか?

瀬川:向かいの家に住んでいた幼なじみが小学校時代からのライバルだったんですが、彼とは熱くなって楽しく将棋を指しました。お互い負けたくないという一心で何千局も指したはずです。負けると二人ともその理由を必死で探して新しい手を考えたりして強くなっていきました。

彼がいなかったらここまでこれなかったはずです。今はインターネットでその気になれば全世界の同じレベルの人と指せますが、その頃はそうじゃない。ですから真向かいにライバルがいて幸せでした。将棋は力の差が出てくると友達でいることが難しいのですが、彼とは一緒に強くなれた、めずらしい関係です。

──親友でありライバルだったんですね。

瀬川:つかみ合いの喧嘩をしたことはありませんが、負けが込むとどちらも不機嫌で。また、港南台の道場では席主さんが二人の実力を見込んで個人的にも面倒を見てくれました。上達度が早いので見込みがあると思ったのでしょう。

中2の時に一緒に奨励会を受けましたが、ともに一次で落ち、僕は中3でまた受けましたが、彼は受けずに高校、大学と進みサラリーマンになりました。

周りの人には恵まれていたと思うんです。

──将棋は一人だけの勝負なのに、人の助けがあったんですね?

瀬川:小学校の先生もそうでした。将棋に熱中している僕を見て「セガショー、君はそのままでいいの。今のままで大丈夫よ」って。あ、みんなが僕をそう呼んでいたように先生も。初めて自分が認められた気がしたことを覚えています。

すべてを奪われ、半年間は腑抜けのようだった

瀬川晶司

──奨励会退会は、強制的に人生をシャットダウンさせられたようなものですよね。その後はどうしましたか?

瀬川:半年くらい実家でニートのような毎日でした。将棋以外何もやってこなかったので、何もやることがなくて。これからどうしていいかわからず、途方に暮れました。みんなとも音信不通。千駄ヶ谷の将棋会館に行こうなんて思わなかったです。誰にも会いたくありませんでした。

──その時、ご家族はどうでしたか?

瀬川:父は常々「人は好きなことをやっていればつらい時も頑張れる」と、言っていました。三男で末っ子なので、僕には甘かったのかもしれません。将棋の道を閉ざされて戻ってきた時も優しかったです。家でブラブラしていても何も言いませんでした。心配はしていたのでしょうが。

「悪いなあ、申し訳ないなあ」と思いながらもありがたかったです。その後、もう将棋とは縁を切ろうと思って神奈川大学法学部の二部に入りました。

──しかし、やっぱり将棋をやめはしなかったんですね。

瀬川:大学に入って少したってからのことです。ある日、向かいの幼なじみが、何も言わずに駒箱を開けて駒を並べてくれました。彼はその時アマチュアのトップに立っていました。本当に久しぶりの対局。負けました。こっぴどくやられました。でも、その時なぜかとても楽しかったんです。将棋を指すのがあまりに楽しくて驚いたくらい。

──どんな将棋でしたか?

瀬川:奨励会時代の追いつめられた暗い将棋ではなくて、自分の思い描いた盤上の構図を自由に表現する快感。自由に思いっきり攻めることができるスリル。

それは僕が好きだった将棋だったんです。奨励会時代の、陰気で楽しさのかけらもない将棋とは似ても似つかない、まったく別のものでした。

解放された将棋で、やっぱり将棋が好きなことを実感した

瀬川晶司

──幼なじみとの一局がきっかけでまた将棋に向き合うことになったんですね。

瀬川:次の日曜日、彼に頼んでいました。道場に連れて行ってくれ、って。そこで気づいたことがありました。苦しんで指すより楽しんで指すほうが、僕は勝つ確率が高くなるんだ、って。

──それからはアマチュアとして活動して、たまにプロとも対局したんですね。

瀬川:アマはプロに勝てるものではないとずっと思っていました。でも、奨励会で6級から三段まで上がった僕とプロとの技術的な差は、わずかでした。むしろ、アマには負けられないというプレッシャーがかかるプロのほうが、勝負では優柔不断になってミスを犯しやすいみたいです。

僕は伸び伸びと指す。プロは姿勢を固くして守りに入る。僕が楽しんで指せば指すほど、プロに次から次へと勝っていったのです。将棋というゲームの本質を見た気がしました。

──開眼ですか? プロになれなかったからこそ、わかったことがありますか?

瀬川:将棋の強さとは、一通りのものではないのかも、と。

プロの強さが、あの奨励会の苦しみから生まれることは確かです。でももしかしたら、別の道筋を通った人は異質の強さを身につけられるのかもしれません。それは、奨励会を卒業してプロになれた人には気づかないかもしれないんです。外に出て将棋の楽しさに目覚めた人にしか得られない強さもあるのかな、と思いました。そのころ僕はすごく強かったんですよ。

──奨励会の最後は負けたら次がないけれど、アマは違うということですか?

瀬川:そう。負けても次がある。それまでは勝ちにこだわって、将棋を憎んでいたのかもしれません。やっぱり将棋って面白いな、とあらためて思いました。「おまえ、負けてもなんだか嬉しそうだな」ってよく言われましたよ。

──どのくらい強かったのでしょう?

瀬川:アマとプロが戦う公式戦「銀河戦」でA級八段に勝ちました。150人ほどいるプロでA級棋士はわずか10人です。「プロ殺し」と騒がれて話題になりました。当時、大学を出てNECの関連会社でSEの仕事をしていたのですが、サラリーマンがプロに勝ち続けるのに、驚いた人が多かったみたいですね。

──会社員の仕事はどうでした?

瀬川:SEの仕事は面白かったです。周りの人たちもみなよくしてくれました。NECはアマの世界で将棋が強くて、日本一にも何度かなっています。それで、就職できたのかもしれません。

──その後、アマの瀬川さんがプロにあまりにも勝つので、プロに挑戦すべきだという声が周囲から上がったんですよね。

瀬川:はい。はじめはあるアマ強豪の方からプロ編入について打診されました。制度がないところなのでとても無理と思い一度は断りましたが、将棋を好きな気持ちには逆らえず、思い切って電話をしました。「僕、プロになりたいんです」と。

それから棋士になった奨励会時代のたくさんの友達、新聞社の記者の方、みんながプロ再挑戦を応援してくれました。その気があるなら僕がプロになれるように将棋連盟にかけあってくれると。

人生、何が起きるかわかりません。

周囲の後押しもあり、奇跡が起こった

瀬川晶司

──そこから前代未聞のプロへの再挑戦、プロ編入試験が始まるのですね。奨励会を退会してもプロになれる道を戦後初めて拓くわけです。プロ相手の対局に勝って「奇跡の六番勝負」と騒がれました。

瀬川:六局のうち、三局で勝てばプロ編入が認められるという試験でした。そして、一局目は負けでした。全敗してしまうのでは、とあの時はつらかったです。取り上げてくれたマスコミにも合わす顔がなくて。

──さぞかしプレッシャーがあったのでは…。

瀬川:奨励会時代と同じく、またもやプレッシャーとの戦いだったのですが、小学校の時の先生から25年ぶりにハガキをいただいたんです。そこにプリントされていたドラえもんが笑って励ましてくれていました。覚えていてくれたんだと嬉しかったし、力が抜けたというか、次の対局も楽しんで指せばいいんだ、と気づかせてくれたのです。

──楽しんで指せて、プロ入りを決めたのですね。

瀬川:はい、三勝二敗で、六局目は行われずに、プロ入りが決まりました。自分の将棋が指せたと思います。

──プロ入りが認められたのは将棋界の大事件でした。いろいろな人たちの後押しがあって実現できたんですね。

瀬川人のつながりが一番の財産だと思います。再びプロに挑みたいと言った時、先にプロになった奨励会時代の友人たちが何とかしてやろうと動き回ってくれました。下宿に遊びに来ていた仲間でした。誰に対しても誠実に接していれば、めぐりあわせも増えてくると思います。いつかきっと助けてくれるんです。

NECはプロ棋士として所属契約をしてくれました。プロ棋士が、企業と契約するのは初めての例でした。応援してくれる方々がNECにもいたからです。

──回り道はしたけれど、小学生以来の願いが叶ってプロになり、あらためてわかったことってありますか?

瀬川:ひとつわかったのは、実は僕は勝ち負けは好きではないということです。

──え? 勝負の世界なのに?

瀬川:人を打ち負かしたいとはあまり思わないのですが、僕が勝つと喜んでくれる人がいます。その人たちのためには勝ちたいなと思います。自分のために勝つというより、勝った姿をみんなに見てもらいたいというのが僕の支えになっているんです。

瀬川晶司(せがわ・しょうじ)

1970年生まれ。小学6年生でプロ棋士を目指す。中学3年で中学生選抜選手権大会で優勝し、プロ棋士養成機関の奨励会に入会。22歳で三段に昇格するがその後四段になれず26歳で退会。1999年、アマ名人戦に優勝しアマチュア強豪として活躍。2005年に戦後初めてプロ編入試験将棋を実現させて念願のプロ棋士となる。2018年11月、六段に昇格。同年秋、半生を書いた小説『泣き虫しょったんの奇跡』が映画公開された。

Twitter:@ShojiSegawa

取材・文/竜野つとむ
撮影/ケニア・ドイ