2013年春、私は悩んでいた。

ずっと好きだった出版社からの内定。狭い部屋中を駆け回るほどにはうれしかったが、すでに老舗アパレルメーカーへの入社が決まっていた。私なんかが出版社に受かるはずがないと思って、内定承諾書にサインをしてしまっていたのだった。

もともとはあきらめるつもりでエントリーした憧れの出版社。その憧れが現実になって立ち現れた時、喜び以上に恐怖が大きかった。自分のやりたいことで能力がないと思わされるのが怖かった。憧れにそっぽ向かれるのが怖かった。

私は出版社の内定を蹴るための、それらしい理由を必死でかき集め始めた。多忙すぎて病気になって辞めていく人が多いこと、その割に給料があまり高くないこと、もうすでにアパレルメーカーの内定承諾書にサインをしてしまっていること、その会社はホワイト企業だから余暇を使って好きなことができること、そのほうが両親が喜ぶだろうと思ったこと。どれもこれもが、その気になれば退けられる理由だった。

小さい頃から本を読むことと文章を書くことが好きで、何より出版社は第1志望だったのだから行かない理由なんてないはずだった。それなのに、他人の意見で理論武装して、人のせいにして、出版社の内定をお断りした。小さくて卑しい人間のやることだ。だけど、どうしても、好きなものに向き合うのが怖かった。

憧れを成仏できずに苦しんだ会社員時代

成仏させなかった恋がある日突然化けて出て、実体のない苦しみに苛まれることがある。

私にとっての出版社もまさにそんな感じで、ときどき悪夢になって私を襲った。

新卒で入社した老舗アパレルメーカーは体育会系の会社で、新入社員が朝一番に来るのは当たり前。先輩たちの到着を待ち、各部屋に挨拶をしに回るのがしきたりだった。エレベーター盤を押すのも新入社員の役割で、先輩より早くご飯を食べ終えなければいけないとも教わった。正直なところ肌に合っていないと思ったが「出版社にいては得られなかった私に足りない部分を教えていただいてうれしい」と、自分に言い聞かせるように母に話した。

同期との反りも合わなかった。新卒社員は4人、そのうち女性社員は私だけだった。用事もないのに同期と毎日のように飲みに行ってはケンカになった。乾杯直後に「お前のメガネが汚い」とか「うるせぇ、顔採用のくせに」などと言い合っているうちに火がつき、気づけば立ち上がって同期の胸ぐらをつかんでいた。こんなやつらと私を一緒にしないでほしいと思った。

「出版社に入っていたら、こんなこともなかったのかな」

選考の時に一緒だった面々の顔を思い浮かべる。彼らは今このときも仕事をしているのだろうか。空しくなって、同期のネクタイから手を離した。

仕事内容も向いていなかった。私が配属されたのは営業部で、商品を卸しているお店を定期的に回るだけのルート営業。売れた分だけ補充してくれる取引先の存在はありがたかったが、私がいてもいなくても変わらないなと思ってしまった。

それ以外の新入社員の主な仕事は電話応対と伝票記入。伝票は手書きで、ケアレスミスの多い私は毎日伝票を訂正印で真っ赤にした。伝票記入を間違えたら、部長と副部長、別の部署の部長、経理の担当者さんに報告しに行かねばならない。叱られるのが嫌だと思えば思うほど手が震え、文字がミミズになって、また伝票をダメにした。

伝票をダメにするたびに「お前はこんな簡単なこともできないのか」と叱られたが、私自身が一番そう思っていた。

こんな簡単なこともできない自分はダメだ。そもそも私はどうしてこんな仕事をしているんだろう。

出版社に入っていたら違ったんじゃないか、出版社に入っていればどんな生活が待っていたんだろう、どうして出版社に入らなかったんだろう、どうして私は逃げてしまったんだろう、自分の好きなことから逃げてしまったんだろう。

満員電車で不機嫌そうにする人の顔、真っ赤になった伝票、その日食べた定食がマズかったこと、昨日近所のコンビニで買ったティッシュが駅前のスーパーで安く売られていたこと、生活のありとあらゆるすべてが自分を責める材料になった。

玄関で靴を履いてから外に出るまでに1時間以上かかるようになり、そのうちに会社に行けなくなった。「パニック障害」の病名がついて、会社を休職することになった。

プライベートもうまくいかず、中距離恋愛をしていた彼氏との連絡もつかなくなっていた。やることのない私は数日に一度のペースでメールをしたり電話をかけたりしていたが、返事は3回に1度返ってくればいいほうだった。

そんなある日の夜、呼吸困難になった。パニックになって初めて「いのちの電話」にかけるが、つながらない。夜中の2時を回っていたが、とっさに彼に電話をかけた。ワンコールで電話越しに「もしもし」と聞こえた。馴染みのやさしい、大好きな声だった。電話で話すのは3カ月ぶりだった。

「ねぇ、死にたい」

そう言うと、間髪入れずに「生きろ!」と言われた。今まで聞いたことがないほどの強い言い方で、圧倒されて息を飲んだ。電話は切れていた。死にたいくらい、ダサかった。

口の中に塩辛さを感じながら、どこで道を間違えたのだろうと足の踏み場のない部屋に横たわり、白い天井を仰ぎ見る。それから毎日、白い天井のシミを数えて飽きたら眠り、家の目の前にあるコンビニに行くだけで1日を終えた。

職場の人たちはやさしく、毎日のようにケンカをしていた同期までもが心配してLINEや電話をしてくれた。みんなが働く中、給料をもらいながら何の価値も生み出せないことが不甲斐なかった。

何もかもを失って気づいた「作家になりたい」

毎日敷きっぱなしの布団で寝起きするだけで精一杯だったが、気が紛れる時間があった。それは、文章を書いている時だった。

文章といっても頭に浮かぶことばをただ書き写したようなものだったけれど、その時間だけは我を忘れた。書いた文章をSNSで細々と公開したら「面白いからお話しさせてほしい」といろいろな人からお茶に誘ってもらえるようになった。あの頃の私にとって、社会とつながる唯一の方法だった。

「これを仕事にできたらいいのに」

文章を書くことを仕事にできたらとぼんやり考えた時、私は就活をしていたときのことを思い出した。

出版社に行くか迷っていた時、行かない決定的な理由になったのは「多忙すぎて病気になるから」だったけれど、多忙じゃなくても病気になってしまった。だったら、好きなことをやって病気になったほうがいいじゃないかと思った。

それでも一度は、復職を試みた。部署を変えてもらったが、私の体調は悪くなる一方だった。「これ以上会社に迷惑をかけられない」という気持ちと「一年で退職するのは早すぎるのではないか」という気持ちの間で、私はまだ揺らいでいた。そんな私に母が「もう十分頑張ったよ。好きなことをしなさい。何がしたい?」と聞いた。

「作家になりたい」

思ってもいない言葉が口をついて出て、その後を涙が続いた。私、作家になりたかったんだ。

そこから離職票を提出するまでは早かった。仕事を失い、恋人を失い、実家に帰ることにしたため、東京の家も引き払うことにした。持てるものが何もなくなって肩の荷が下りたような思いだった。晴れやかな気持ちで、2015年6月を迎えた。

分岐点になったのは一握りのプライド

会社を辞めて北海道の実家に帰るまでは1カ月の猶予があった。実家に帰れば両親の扶養に入って、ひたすら作品を書く生活が待っている。私は大まじめに作家になろうとしていたのだった。それでも、お小遣いくらいは自分で稼ぎたいという妙なプライドがあって、東京を離れるまでの1カ月の間にweb編プロの門を叩いて回った。

実績もないままに訪問した私は当然仕事がもらえなかったが、「最初は無料でいいので記事を書かせてください。気に入ったらお仕事として発注をお願いします」と言って食い下がり、仕事につなげていった。傷病手当をもらいながら寝たきりの生活を送っていた私にとって、仕事の対価としてお金をもらえることは飛び上がってしまうほどにうれしいことだった。体調はみるみるうちに良くなっていき、気づけばパニック障害の症状はほとんどなくなっていた。

「あれ、私、働けてるじゃん」

このまま実家に戻るのは惜しいと思った。

「お母さん、私もう少しだけこっちで頑張ってみるわ」

母は「あなたの人生だから好きにしたらいいよ」と言ってくれた。私は自信を取り戻して希望でいっぱいだった。ただ、家を引き払うまではあと1週間もなかった。

家がなくなってからしばらくは、大学時代の友達の家を頼りにした。夜遅くにも関わらず快く泊めてくれ、駅前まで迎えに来てくれる友達のスーツ姿がまぶしい。疲れているだろうからと湯船に湯を張ってくれ、朝はごはんと鍵と手紙を置いて6時過ぎに出かけていく。

友達のやさしさは本当にありがたかった。しかし、やさしくしてもらえばしてもらうほど、自分が恥ずかしくなった。元は同じ校舎で一緒に勉強したり遊んでいたりしたはずなのに、かたや立派な会社員で、私は名もないライター。仕事もほとんどせずに家を持たずにフラフラしている自分が情けなかった。

数日ほどお世話になって、「泊めてもらえる家が見つかった」と嘘をついて友達の家を出た。友達は心底喜んでくれ、「また困ったらいつでも来てね」と言ってくれた。そのやさしさと自分の不甲斐なさに唇を噛んで涙を堪えた。それから私は本当に、東京を放浪し始めた。

作家を志してライターになり、東京のヒモになる

佐々木ののか

60リットルのザックに数日分の着替えとタオル、パソコンを詰めて背負って街中を歩く。最低限のものしか持っていないので、スマホの充電器がない時はカフェで隣り合った人に声をかけて借りた。カフェで作業するお金がない時は取引先のオフィスにふらふら遊びに行き、「ちょっと作業していいですか」と言いながら、1日中居座った。味を占めて毎日通い、さすがに図々しいかなと思ったが、「納品してもらった原稿のフィードバックがその場でできて助かる」と言って、どんどん発注してくれた。ライター業を始めて3カ月で収入が20万円を越えた。

基本的にネットカフェに泊まったが、どうしても静かな場所で眠りたい日は、その日たまたま立ち寄っていた飲食店の店主にお願いして、店の床で寝かせてもらった。「あつかましくて本当にすみません」と謝ると、「代わりに僕の話を少し聞いてくれる?」と言って、「実は来週結婚するんだけど、彼女を幸せにできるか不安なんだ」と話してくれた。ひとしきり話を聞くと、「聞いてくれて助かったよ」と言われた。おしなべてやさしい人だと思った。

異業種交流会で出会った人は、その日から1カ月間、見ず知らずの私を家に泊めてくれた。私の収入が5万円まで下がったり、仕事でミスをして落ち込んだりした日は、ギターを出してきてくれて、たまの『さよなら人類』を一緒に歌った。彼とは恋愛関係になるわけではなく、私の夢を純粋に応援してくれているようだった。彼女を紹介してくれたり、実家にも連れて行ってくれたりと、家族のように接してくれた。

地元にいた頃、「東京は怖い人ばかりだから騙されないようにしなきゃダメだよ」と周りの大人たちに言われながら育った。東京は冷たい街だと思っていたが、十分すぎるほどにあたたかくやさしかった。何も持たず何者でもない私は、そのやさしさにどっぷり甘えて、東京の人たちにモノを借り、家に住まわせてもらい、ご飯を食べさせてもらった。私はすっかり、東京のヒモだった。

「何もできなくてごめん」と言う私に、みんな口を揃えて「何もしなくていいから、その代わり頑張って作家になってね」と言ってくれた。その人たちのためにもまずは頑張って自立しなければいけないと思った。

どんな仕事も断らずに打席に立ち続けた。ドライバーが必要だと言われれば車を手配して小田原まで運転し、他のライターが飛んでしまった時は代打に入り、原稿を即日で仕上げた。毎日3時間しか寝ず、夢中になって作業していたら丸2日間ご飯を食べるのを忘れたこともある。けれどまったく苦ではなかった。早く成果を出して助けてくれた人たちに喜んでもらいたかった。私の夢はもう私だけのものではなくなった。

貯金が60万円になったころ「今だ」と思って家を借りた。下北沢駅徒歩3分、築60年の風呂なしアパートだったが、放浪する中で一番好きだと思っていた街に家を借りられたのはうれしかった。家に長く住まわせてもらっていた友達を、新居に招いてもてなせたことも感慨深かった。

「家も借りたし、本格的に創作活動だね」

一緒に銭湯に行き、買ってきた缶ビールで乾杯した。ライターになってから半年、2015年12月のことだった。

仕事は“私”を社会に接続してくれるもの

――あの時出版社に行っていたら

選ばなかった人生のことをときどき考える。

選ばなかった人生のことは選ばなかったのだからどうなっていたかなんてわからないけれど、今の私をつくっているものは、仕事を失うことによって得た“社会との断絶”と文章を書くことによって得た“社会への再接続”の体験だった。

体調を崩して休職した時、社会と断絶されてしまった私を再び社会に接続してくれたのは文章だった。何者でもない私が書くものを読んでくれる人がいるという事実に救われた。家もお金もなく、ただただ「作家になりたい」という24歳に手を差し伸べてくれるやさしい人たちのために、仕事で返していかなければいけないと思えたおかげで、私は今も書き続けることができている。

仕事とは、金銭の授受に関わらず、社会とつながるための方法のひとつに過ぎないのかもしれない。私の場合はそれがたまたま文章で、たまたま生業になっているというだけの話なのかもしれない。

この間、かつて世話になった友人から久しぶりに連絡が来て「いつになったら作品書いて見せてくれるんだよ」と言われた。私の夢がまだ私だけのものではないことがうれしかった。

「いつかきっと作家になるから、もう少し待っててほしい」

出版の予定はない。

だからお金にもならないかもしれない。

しかし、私は今、大真面目に、小説を書いている。

<写真/なかむらしんたろう(@nakamuran0901)>