思わず吹き出してしまう人続出の痛快ツイート(下ネタあり)を産み出す、自称「無名の一般女性」の深爪さん。Twitterフォロワーは16万人超。ずっと“自分はダメな人間”だと思い込み、書くことで救われたという深爪さんに、自己肯定感の育て方について綴ってもらいました。

気づいたらずっと持っていた、「自己肯定感の低さ」

ここ数年、「自己肯定感」というワードをよく目にするようになった。

自己肯定感

「自分のあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する語」

※『実用日本語表現辞典』より引用

平たく言えば「自分は大切な存在だ」と思える感覚である。

私にはこの感覚が著しく欠けている。

自分が「価値ある人間」だとは到底思えないのだ。

「自分はダメ人間だ」と毎秒思っているわけではないが、日常のふとした瞬間に「自己肯定感の低さ」を実感することはよくある。

たとえば、私にも人並みに恋人はいたが、どんな男性と付き合っても「この男は本当に私なんぞのことが好きなのだろうか」という気持ちがぬぐえなかった。

だから、

「キミを想うと眠れない 狂おしいほど愛してる wowwow ラビンニュ~」

みたいな男性アイドルの歌を聴いても、

「いや、私のことを考えて寝不足になる男はいないだろ」

と思ってしまってまったく感情移入ができない。

また、この自信のなさは同性の友人にも発動される。

「ランチ、どこにする?」という話になったとき、どんなに行きたい店があっても言い出せない。自分の提案が通らなかった時の気まずさを味わいたくないし、仮に採用されても「もし、みんなに気に入ってもらえなかったら…」と考えると何も言えなくなってしまう。

結局、たいして食べたくもないナポリタンをくるくるとフォークで巻きながら、「天丼がよかった。カリッカリのエビ天のしっぽが食べたかった」と悶々とするハメになるのだ。

なぜ、私はこんなにも自分に自信が持てない人間になってしまったのだろうか。

いろいろと考えた末にたどり着いたのは「母親」だった。

誰にも嫌われたくないのに、誰にも好かれない

私には母にほめられた記憶がほとんどない。

テストで100点を取っても「このレベルの問題なら、当然」と無表情で吐き捨てられるだけ。「賞をもらった」と喜び勇んで写生大会で描いた絵を見せれば「ちょっと色が暗い。もう少し明るい色が使えなかったの?」とダメ出しを食らう。

うっかり手伝いでもした日には「あー、もう余計なことをして。またやり直さなきゃいけないじゃない」と迷惑がられる始末だ。

学校の先生や友達、親戚の人にはたびたび「すごいね」とおほめの言葉をいただいたが、決して満たされることはなかった。私は母にほめられたかったのである。こんなことが繰り返されるうちに、いつしか私は「自分はダメな人間なんだ」と思い込むようになっていった。

それは社会人になっても変わらなかった。

とにかく自分に自信がないので、常に他人の目を気にしていた。

何をするにしても「自分がこうしたい」ではなく「こうしたら他人はどう思うだろうか」が先に立ったし、常に「誰にも嫌われないようにする」を心がけて行動していた。

にもかかわらず、「どんなに盛り上がっていても、私が発言すると会話が止まる」「周囲があだ名で呼び合う中、ひとりだけ苗字にさん付け」「とにかく誘われない」といった怪奇現象が身の回りで次々と起こった。

深爪

「誰にも嫌われたくない」を行動基準にした結果、「誰にも好かれない」という実に皮肉な状況に陥ったのである。

よく考えれば当然のことだ。

誰にも嫌われないようにするには、まず、自分を殺さなければならない。万人に好かれるであろうキャラクターを作り上げ、それを演じる必要がある。

これは、相手を騙していることに他ならない。要は、ウソつきだ。また、「誰にも嫌われないようにする」は、一見、他人に不快感を与えまいとする気遣い溢れる行為にも思えるが、裏を返せば「とにかく自分を“良い人間”に見せることに終始する」であり、気遣いとは真逆の精神である。

そして、この手の人間は得てして「ここまで努力したのだから好いてほしい」と無意識に相手に過剰な期待を押しつけてしまいがちだ。

誰がこんな人間を好きになるだろうか。「好かれる」というのは単なる「結果」であって、「誰にも嫌われたくない」を意図して行動するのは愚の骨頂なのである。たとえ、運よくそれが成功したとしても「みんなに好かれる人が嫌い」という人間が存在する限り、誰にも嫌われないことなど不可能なのだ。

誰にも嫌われなければ、そして、誰かに好意を示してもらえれば、もしくは、自分のことを愛せるようになれるかもしれないと仄かな期待を抱いていたが、こうして私の「自己肯定感向上計画」はもろくも崩れ去ったのである。

Twitterと出会い、否定されない人生を見つける

ところが、あれほど努力してもビタイチ上がらなかった自己肯定感が、ある“出会い”をきっかけにべらぼうにアップした。

Twitterである。

「なんか流行ってるらしいから」となんとなく始めたTwitterだったが、毎日のように「『小栗旬』という字面の高級和菓子感がスゴい」とか「前方のはるか遠くを走るオープンカーの助手席に栗色の髪をたなびかせた小柄な女性が乗ってて『ステキだなあ』って思ってたんだけど、角を曲がるときに横顔を見たら犬だった」みたいなことをツイートしているうちに、いろいろなサイトで紹介されるようになった。

徐々にフォロワーは増え、現在では16万人を超えている。東京ドーム3杯分だ。また、埼玉県新座市の人口とほぼ同数でもある。

あまりピンとこないかもしれないが、私もピンときてないので安心してほしい。これだけの大人数にフォローされているので、ツイートをすれば即座に大量の「いいね」がつく。否定され続ける人生を歩んできた私にとって、Twitterは夢の国になった。

そもそも、私は幼いころから文章を書くのが得意だった。

幼稚園のときには立派なオリジナル童話を創作していたし、小学生のときには市の作文コンクールで賞をもらったこともある。だが、受賞した作文は母が添削したものだった。私の文章の原型はほとんどなく、もはや母の作品といっても過言ではない仕上がりである。

大きな賞をいただいたのに、まったく嬉しくなかった。むしろ、「自分はダメなんだ」という気持ちが強化されただけだった。

ところが、Twitterでは母に添削されたものではない、純度100パーの自分の文章が評価されるのである。

こんなに嬉しいことはない。書けば書くほど、自己肯定感はいやがうえにも高まっていった。

それはTwitterの世界だけに留まらなかった。先日のランチタイムには自ら「おいしい天丼屋さんがあるから行こうよ!」と友人を誘うこともできた。たいして食べたくもないナポリタンを悶々としながらフォークで巻く人生とはもうおさらばである。

悪意を無効化する方法

だが、16万人もフォロワーがいれば、悪意を受けることもある。

見ず知らずの人に突然「お前、バカだろ」と言われるのは日常茶飯事だ。

それでも、Twitterで培われた私の自己肯定感は失われることはなかった。「いいね」をもらいまくったことで、ゆるぎない自信ができあがったのかもしれない。自信で余裕も生まれたのか、悪意に対する対処法を編み出すことにも成功した。

みなさんも、日常生活で理不尽な悪意を受けることはよくあると思う。ご参考までに私の考えた究極の「悪意を無効化する方法」をお伝えしたい。

誰かを中傷するときに、まず考えるのは「どんな言葉を投げれば、相手に最大限のダメージを与えられるか」だと思う。「バカ」「ブス」「友達いないだろ」など、さまざまなフレーズが頭に浮かぶと思う。

さて、ここであなたが思い浮かべた言葉についてよく考えてほしい。

それらはすべて「自分が言われて一番イヤな言葉」ではないだろうか。相手の心理を探るとき、人はその状況を自分に置き換えて考えがちだ。悪口を言うときも同様で、「他人に言われたら憤死しちゃう」と思うような言葉を無意識に選び出しているのではないか、ということである。

つまり、悪口は己のコンプレックスの表明なのだ。

「罵倒文句は劣等感を映す鏡」と気付いてからは、罵詈雑言を食らうたびに凹むどころか「なるほど、そこが弱点なのね」とニヤニヤするようになってしまった。

たとえば先述の「バカ」「ブス」「友達いないだろ」は「私は頭が悪い上に容姿に自信がなく友達もないのがコンプレックスです」と宣言しているように聞こえる。

ダメージを受けるどころか、もう同情心しかわかない。非常に底意地の悪い対処法だとは思うが、理不尽な悪意に悩まされている人たちの参考になれば幸いである。

ダメな自分も自分。好きで得意なことだけを続ける

自己肯定感を高める方法はいろいろあると思うが、やはり、好きなこと、得意なことを続けるのは大切だと思う。

「自信をつけるためには、まず弱点を克服した方がいいのでは?」と思う人もいるかもしれない。だが、これは自己肯定感の低いタイプには逆効果だ。弱点を克服しようとする段階で失敗を繰り返すため、ダメな自分を痛感させられるだけに終わってしまう可能性が高い。

一方、好きなことや得意なことだけをすれば、失敗も少ないし、なにより単純に楽しい。苦手なものはあえて避け、好きで得意なことだけを続けることで自信は自ずとついてくるのである。

深爪

よく「自分を好きになろう」とアドバイスする自己啓発本を見かける。

でも、私は必ずしも自分を好きになる必要はないと思う。

かくいう私も嫌いな部分を直して自分を好きになろうと努力したことがあるが、とにかく直らない。直らないからさらに自己嫌悪に陥る。この悪循環の中、ある時気づいた。

ダメな自分も自分なのだ。それでいいじゃん、にんげんだもの。

完全なる開き直りではあるが、自分を丸ごと受け入れてしまうとびっくりするほど楽になった。アナ雪ブームで「ありのままで生きる」というフレーズが流行ったが、人生を楽しく生きるために一番必要なのは、嫌いな部分もひっくるめた「ありのままの自分」を認めることなのかもしれない。

とはいえ、どうしても「ありのままの自分」が認められない人もいるだろう。

自己肯定感を高めるために誰かに愛されたい。誰かに愛されるためなら、ありのままの自分でいなくてもいいと思うかもしれない。だが、

今一度考えてほしい。自分を偽って他人に好かれたとしても、「本当の自分」が愛されているわけではないのである。この空しさに気づけば、自然と他人の目を気にすることもなくなるだろう。だいぶ強がりな感も否めないが、私は心からそう思っている。

他人の目を気にせず、己が正しいと思う道だけを歩んだ先に「ありのままの自分」を愛してくれる人が待っていると信じて、私は今日も生きていくのである。

この記事を書いた人

深爪

深爪(ふかづめ)

コラムニスト/主婦。2012年11月にTwitterにアカウントを開設。独特な視点から繰り出すツイートが共感を呼び、またたく間にフォロワーが増え、その数16万人超(2019年2月現在)。主婦業の傍ら、執筆活動をしている。主な著書に「深爪式 声に出して読めない53の話」「深爪流 役に立ちそうで立たない少し役に立つ話」(ともにKADOKAWA)。また、女性セブン(小学館)にて隔週コラム「立て板に泥水」を連載中。芸能、ドラマ、人生、恋愛、エロと、執筆ジャンルは多様。

Twitter:@fukazume_taro