生産性を上げよう、と盛んに叫ばれています。皆さんはこの言葉を耳にしたとき、どのような感情を持つでしょうか。哲学研究を生業とするながーいれいさんは、「生産性」の根本を考えてみよう、と語ります。

退屈な曇天のある日、小包が届いた。

差出人を見ると親戚の名があり、ずっしりと重い。

そういえば、贈り物があると言っていたなと思いながら、ぐるぐる巻きにされたガムテープを長い時間をかけて引き剥がす。大きな封筒から箱を引っ張り出すと、今度はプチプチが巻かれていて、再び爪でテープをカリカリと引っかき剥がす。思わぬ手間に玄関で包装を解こうとしたことを後悔する。と同時に、わたしはその中身に強い期待を寄せている。

この重さだったら、おしゃれなキッチン用品かな。素敵なカトラリーだったらどうしよう。二段目の食器棚を整理すれば入るな。ああ、できればスープ皿が欲しい。

わたしは剥がしたガムテープを床に落として、がばりと蓋を開けた。

中にはぎちぎちに詰められた、はっさくが3つ入っていた。

「生産性」を哲学する

「生産性」について原稿を書きませんか、と言われた時、とても驚いた。

なぜなら、わたしは「研究者」と呼ばれる人間で、なおかつ「哲学」を研究しており、それこそ「哲学研究って、生産性あるんですか?」と人に聞かれるような分野だからだ。

個人的には、哲学ほど「役に立つ」(この言葉にもいろんな意味がある)ものはないと思っているので、生産性は当然あると考えているし、そもそも「生産性がない」なんてことあり得るのか、という問いすらも浮かび、収拾がつかなくなるので、ここでは、生産性が「ある」とか「ない」とかいうこととは何か、ということについては広げない。

ただ、最近いろいろな場所で「生産性を高めよう」という言葉を耳にすることが多くなった。

日本は、G7の中で労働生産性が低いランキングで1970年から2017年まで47年間トップだそうだ。(※)

諸行無常の響きあり、と詠んだ日本が、47年間も不動のものがあるとはすさまじい。

この調査結果を気にするか気にしないか、立場や議論の方向性はいくつかあるにせよ、昨今は「働き方改革」という言葉とセットで「生産性を高めよう」は理解されているように思う。

効率よく、いいものをつくろう。無駄を減らして、成果を出そう。

現に、企業に就職した友人たちは、上司の方から「生産性を高める」ことを目標とせよ、と告げられたり、会議でしばしばその言葉が用いられたりすると言っていた。

わたしはと言えば、哲学科の大学院などにうっかり入学してしまい、文献購読の授業などを受講すれば、哲学書とにらみ合い、知の巨人である先哲たちが遺した思索の跡を、90分かけてたった2行しか読み解くことができなかった、なんてことが珍しくない。

「この人称代名詞esってこの単語を指してるんですかね?」みたいな議論であっという間に時間は過ぎる。そして、esが指し示す何かが明らかになったとしても、教室内に成果物として1億円が発生することはない。

「哲学する」には時間がかかる。

より正確に言えば、「探究する」には時間が必要なのだ。

時間のかかる作業は、「生産性を高めよう」という言葉とは縁遠いように思えるが、人によっては哲学は効率性なんてことに関わらない意義深い行為だ、とか、「生産性の高さ」では測れない価値が哲学にはあるのだ、といった主張が出てくることもある。

主張が数多いと、「あなたにとってはそうでも、わたしにとっては違いますけど」なんて、人それぞれの相対主義に結論が落ち着いてしまったりする。また「生産性」をどう定義するかによっても主張は変わるだろう。

だから「哲学」それ自体の生産性を問うことよりも、「生産性を高めよう」という言葉や考え自体を哲学してみることの方が面白そうだ。

哲学とは、前提や思い込みを取り外して、そもそもそれはどういうことなのか、と問いを投げ続けることである。

余計な意味づけや飾りを丁寧に引き剥がしていき、奥に隠れているかもしれない「何か」の手触りを確かめることである。

哲学は、過剰包装された小包を紐解いていく作業に似ている。

巻き付けられた思い込みや、べったりと張り付いたレッテルを、辛抱強く剥がしていき、中身を見ようとするのだ。

この重さならきっとアレだ、といった思い込みは、問い直さなければならない。

包装紙の奥底には、予想もつかない何かが眠っている可能性がある。

時に、つややかに照り返す瑞々しい果実が顔をのぞかせることだってあるのだ。

「生産性を高めよう」。その言葉が纏っている包み紙を、私なりに剥いでみることにしたい。

走れ、走りつづけよ

思い出すことがある。

むかし、ある先輩に「もっと生産性の高い研究をしろ」と飲み屋で説教をされた。

あまり知られていないかもしれないが、哲学のみならず研究の世界はかなり厳しい状況にある。

どれだけ優秀であっても、大学教授のポストを得ることは難しい。

この時代に研究者を目指すなら、ホームレスになる覚悟をしろ、なんて言われたりするほどだ。

厳しい状況だからこそ、時代に合った(と思われる)研究、意義のある(と言える)研究をし、研究成果が権威づけられ評価されている必要がある。必要なのは、意義と新奇性と、そして運。

適切な評価を獲得するために研究者たちは、求められる論文を書き、業績を重ね、結果を出そうと奮闘する。なんとか得られたポストは、ほとんどの場合任期付き。

じたばたともがき、苦しさのあまり研究を諦める人も多い。

「哲学」をすることと、「哲学研究」をすることは、全く別のことだ、という人もいる。

「〇年までに国際学会で発表、査読付き論文〇本を書くこと」。

先輩はわたしを指さして、判決を言い渡す裁判官のように言った。

「きみは優秀だと〇〇先生に言われたかも知れないけど、そんなんじゃダメだ、きみは〇〇を研究しているようだね、もっと意味のあることをしろ、この業界ではこれが普通なんだ、とにかく急いで〇についての論文を仕上げるんだ、今はきみがやっている研究が求められる時代じゃない・・・・・・」。

言い添えておきたいのは、この先輩とは、このときが初対面であるということだ。

わたしは先輩の顔を眺めながら、この人は、初対面の22歳に対してこんなことを言うほど、何にせき立てられているのだろう、と感じて、ひどくおそろしくなった。

生産性の高さはスピードを伴う。

無駄をなくして早く仕事を仕上げよう。成果を出そう。効率を良くしよう。

確かに素敵なことだ。

以前、エクセルが自動的に計算した数をもう一度計算機を使って確認するというバイトをしたことがあったが、あまりの無益さに頭がおかしくなりそうだった。

それに「生産性」という概念に違和を感じる人は多くとも、「生産性をできるだけ低めたい!」「効率を悪くしたい!」と心から思う人は少なそうだ。あるとしたら、何か別の意図があるのではないだろうか。

だが、生産性を高めることと、スピードがあまりにもくっつき過ぎてしまうこともある。

あいつよりも速く成果を上げろ、無駄をなくして速く仕事を仕上げろ、生産性を高めた先に、もっと高められる何かがある。走れ、走りつづけよ。

誰かがささやいている。

そうだ、走るんだ、誰よりも速く。

目の前に快速電車が止まっている。ベルが鳴る。ドアが閉まるのだ。本当は特に急ぐ必要はない。だがこれを逃して5分待つ時間は無駄だ。みんなが走っている。あれに乗れば予定よりもずっと速く目的地に着くだろう。革靴を響かせて、隣のあの人よりも速く身をねじ込もうとする。走れ、走れ、走れ!

ガゴガゴッ、と嫌な音がする。

わたしたちより遅く乗り込んだ誰かが、扉に挟まったのだ。

駅員さんが「誰か」の肩をつかみ、扉からひっぱり出そうとしている。「誰か」はホームに置き去りになって、わたしたちを乗せた快速電車は発車する。

駆け込み乗車はおやめください、駆け込み乗車は大変危険です、怪我のみならず、電車が遅れる原因となります、他のお客さまにも迷惑がかかります、そのような行為はおやめください。

怒りに声を震わせた車内アナウンスが流れる。

それを、わたしたちは身じろぎせずに聞いている。

誰も一言も発することはない。

目を固く閉じたわたしたちを乗せて、電車はとおいどこかの町へ向かって行く。

だが、でも、しかし。

わたしたちにふと問いがよぎる。

一体なぜ、わたしたちは急いでいるのだろうか?

急がざるを得ないから、という答えが返ってくるにしても。

誰が生産性を欲望しているのか?

「生産性を高めよう」。

この言葉に対する評価を、わたしはこの原稿で望まない。

なぜなら、哲学とは、評価がゴールではなく、評価のレッテルを剥がしてみることがスタートだからだ。

だから、こう問うことができる。

生産性を高めようと言うとき、誰が、それを欲望しているのだろうか

その主語は、主体は誰なのだろうか。

企業が、経営者が、システムが、世の中の仕組みが、とわたしたちは言う。

昔わたしに説教した先輩も、同じように言うだろう。

だが、それはひどく曖昧で、抽象的で、漠然とした主語である。

デザイナーの友人が、単身でイギリスに渡り仕事を始めた。

英語はほぼできないまま(個人レッスンを受けていると言いながら、Can you celebrateってどういう意味? などと聞いてくる)だったが、数カ月仕事をし、イギリス人の彼氏もできたそうだ。

だが、二人に試練が訪れる。友人が就労ビザを取れない可能性が出てきたのだ。

仕方がないので、ビザが取れなかったときのために東京での就活を進めていた彼女を見て、ショックを受けた彼は「じゃあ、もしビザが取れなかったら、そのときは僕たちはお別れだね」と言った。

友人は驚いて、どうして? なぜ別れる必要があるの? それにまだ分からないじゃないと、つたない英語で問いかける。

すると、彼は悟ったように「Universe says that.」と言った。

ユニバースセイズザット。

宇宙がそう言っているんだよ。

諦めと静けさに満ちた彼の一言に、友人は爆発した。

いいえ!!

それはあなたのチョイス! あなたがSay! 宇宙じゃないの、あなたが別れを望んで、あなたがそれを言っているの、ユーがSayしている!! ノーユニバース!!!

言語の壁を越えた彼女の怒りがロンドンに鳴り響く。

宇宙目線で語ってんじゃねえよ!!

いまは仲良しだよ、日本に一時帰国した友人はニコニコしてコーヒーを啜った。

「わたしの欲望」であれ

友人の言葉は、わたしたちに主体を取り戻せ! と訴えかける。

そして主体のありかは、哲学研究における生産性にも、企業で語られる生産性に関しても重要なはずだ。

生産性は「速く、速く!」と速度を要求するが、スピードが増すほど、「それは誰が求めているのか」と、主体のありかへの疑問が色濃くなっていく。

それでも、生産性を駆動させるのがまさに「わたし」であり、わたしが意図するのならば、その主体はわたしでありたい。

だってこれは、まさにわたしの人生なのだから。

だが、もう少し、生産性という言葉に巻き付けられている包装紙のガムテープを、辛抱強く爪で引っかいてみたい。

次第にこの作業は、自分自身の心の包装紙を剥がしていることでもあることに気が付く。

そしてわたしたちは、自分にこのように問うのだ。

わたしたちは生産性を高めることによって、何を欲望するのだろうか?

当たり前のことだが、「生産性を高めること」はそれ自体が目的ではない。

生産性を高めるという言葉に包装されてしまった、わたしの欲望があるはずなのだ。

企業が成長してほしい。自由な時間を持ちたい。人を幸せにしたい。長く刺激的な研究をしていたい。

わたしはどんな前提を持ち、どんな欲望を持っているのだろうか。

もちろん、生産性を高めるなんて望んでいない、そんなことしたくない、という欲望だっていい。もしガサガサの包装紙をかき分けて、そんな欲望が発見できたら、まだ包装紙が巻き付いていないか、点検してみるのもいい。なぜ、わたしはそんなことを、したくないのだろうか、と。

この世界が回っていくためのシステムは強大で複雑で、たった一人の手で何かを変えることは難しい。

例えば、研究の世界が、若手研究者が誰も望まない形で、成果を急き立てられるような場であっても、わたしが何かを叫んだことで抜本的に変革されることは、ほぼあり得ない。

わたしたちは、世界に対する主導権をほとんど持っていないに等しい。

だからせめて、欲望の主語はわたしでありたい。

生産性を追い求めざるを得なくても、主体を奪われたとしても、わたしの欲望までは奪われたくない。

わたしは、自分がどのような欲望を持っているかについて、せめて自覚的でありたいのだ。

誰のだかも分からない欲望を暴走させておきたくなどないのだ。

駆け込み乗車をしなくてはならないとしても、それがユニバースなんかじゃなくて、わたしのチョイス、わたしの選択、わたしの欲望は持っていたい。

わたしの欲望の手綱は、わたしが引く。

(※)日本生産性本部発表の「労働生産性の国際比較 2018(PDF)」に基づく。

この記事を書いた人

ながーいれい

ながーいれい

哲学の研究と、哲学を実践するおしごとをしてます。詩と将棋と植物園がすきです。いろんな所で「哲学カフェ」をひらいています。普段当たり前だと思っていることを、改めて問い直し、人と一緒にじっくり考え、ゆっくり聴きあい、じりじり対話する場所です。

ブログ:はい哲学科研究室です

Twitter:@nagainagainagai