「大人になってから趣味を見つけるのって難しい」「趣味はあるけれど最近仕事が忙しくて離れてしまった」。そんなふうに思っている人、多いのでは? 音楽・お笑いから大相撲まで幅広く情報収拾しながら公称2兆個の趣味を楽しむヒラギノ游ゴさんに趣味を広げるコツや複数の趣味をうまく楽しむ方法を綴っていただきました。
私は好きにした、君らも好きにしろ
筆者は多趣味だ。公称で趣味が2兆個ある。
一口に趣味と言っても、周りと共有しやすいものからハードコアなものまで多岐にわたる。
音楽鑑賞は多くの人が趣味としてあげるので共通の話題を見つけやすいし、スニーカー収集にしても、そこまでめずらしい趣味じゃないから説明がしやすい。
ただ、集めてるものはスニーカーだけじゃなくて、古雑誌、ジャンプの打ち切り漫画の単行本、ヴィンテージイヤリング、ナルミヤブランドの子ども服なども、コレクションと呼べる量がクローゼットに押し込まれてる。この辺になるとなかなか同好の士が見つからないし、最後の子ども服に関しては状況証拠だけ見ればまあちゃんとヤバい奴だ(筆者に子どもはいない)。

ともあれ、そんな諸々の趣味をどうにかペース配分して、毎日楽しく暮らしてる。
筆者からすると不思議な感覚なんだけれど、「趣味が多いとお金とか時間とか大変でしょ」といった旨の言葉をかけられることはとても多くて、でも「そんなことないよ」ってことを具体的に説明することはしてこなかったように思う。趣味なんだから勝手気ままにやってるし、みんなももっと好き勝手にやればいいのにって感覚はずっとあって、でもその”好き勝手にやる”っていうのが意外と難しいんだろうなってのを最近やっと感じはじめた。
なので今回の記事では、趣味をいくつも持つ生活の楽しさや、無理のない趣味の運用のしかたについて、何かの参考になることを願いつつざっくばらんに書いていく。

対岸の価値を求めて
そもそもなぜ自分が多趣味なのかってことを振り返ると、自分の知らないことに対して、とりあえず手を出してみる無防備さによるところはとても大きいと思う。でもそれって、何も特殊なことじゃない。
自分の中にないセンスなんだけれど、それがいいものであることはわかるものってないだろうか。筆者はそういったものを「対岸の価値」と呼んでいて、これに次々と手を出していくうちに多趣味になった。
たとえば、女の人がコスメの話で盛り上がってるのを見聞きした男の人が「なんか楽しそうでいいな」と感じる時。これは性別の対岸にある価値を感じた瞬間だと思う。
たとえば、NUMBER GIRL再結成のニュースに沸くタイムラインを見た10代が「正直聴いたことないけど、なんかみんなうれしそうでいいな、聴いてみようかな」と思う時。これは世代の対岸にある価値を見つけた瞬間と言えるのかも。
また、クラシック音楽や落語のような、いわゆる古典と呼ばれるようなジャンルは、多くの人にとっての対岸かもしれない。でも、自分の中にそれらを楽しむセンスがまだないとしても、「だから価値のないものだ」とは考えないだろう。
自分にはちょっとわからないけれど、向こう岸にいる人たちがそれを楽しんでるのはわかる。そんな距離感を、筆者はかなり大事にしてる。
たとえば筆者にとっては「Mr.Children」や「BL」「ヴィジュアル系」などがそうだ。
自分の中に、それらを心の底から楽しむセンスはたぶんない。けれど、カラオケで友達が10年近く歌い続けてるミスチルの『Sign』に、彼女が嗚咽しながら読むほど胸を打たれた乾海のBL本に、あの子が就活で病んでいた頃のmixi日記で引用したヴィジュアル系バンドの歌詞に、価値がないわけがない。
自分はそのジャンルの当事者じゃないけれど、隣人として興味は湧くから、よかったらちょっと何がいいのか訊かせてもらえないかな、って距離感でいるうちに、生粋のファンと遜色ない知識を得て、リテラシーが育って、楽しむツボがわかる。こういうことが積み重なって、趣味がどんどん増えていった。
そもそも「生粋のファン」とか「真のファン」みたいな概念も危険な選民思想をはらんでるし、何をもって「好き」とするかっていうのも結局自分で自分に納得いくかどうかでしかない。だから、好きかどうかと問われると正直よくわからない趣味もある。でも、間違いなく興味を惹かれていて、大なり小なりお金や時間を投資してる。
それに、わからないけれど、わからないからこそ惹かれるコンテンツもある。別に、少しディグってみておもしろさがわからなかったら離れる、っていう一般的な姿勢に物申したいわけじゃない。「わからない」ものに対して「これをおもしろがれるようになれたら色々楽しめることが増えるんじゃないか?」みたいな感覚でいると、趣味に対してかなり楽なスタンスでいられるんじゃないかと思うんだ。

リニアモーターおじさんだ! 逃げろ!
趣味が多いと本当によく訊かれるのが、お金と時間の配分の話だ。けれど、そこのところを筆者がどうしてるのかっていう話の前にまず主張したいのが、つぎ込んだお金や時間は何にも比例しないっていうことだ。つまり、ファンとしての格の高さや、界隈での発言力なんかにはいっさい何の関係もない。お金はお金でしかないし、時間は時間でしかない。
ここのところに負い目に感じて「あんまりちゃんと追ってないんで」「まだ勉強不足で」「自分は浅く広くなんで」と前置きしてからでないと趣味についてしゃべれないあの感じ、そろそろやめにしたい。
少なくとも筆者にとっては、趣味は100%自己満足するためのものなので、使ったお金や時間、さらには熱量や知識量を周りと比較して何かの優劣を競う理由がない。
ところが、本来は純粋に自己満足するために始めたはずの趣味に邪念を持ち込む存在がいる。筆者が「リニアモーターおじさん」と呼んでるのがそれだ。
Perfumeが『ポリリズム』で一躍脚光を浴びた頃に、「最近売れてるよね、まあ俺は初期の『リニアモーターガール』の頃から聴いてたけど」と古参アピールしてマウントを取ろうとする人が湧いて出てきた。そこから転じて、ジャンル問わず蔓延る似たような厄介者のファンをリニアモーターおじさんと呼ぶようになった。
ちなみに、何にでも歴史ってものはあるようで、歌舞伎ファンの間では同様の厄介者のファンのことを「團菊じじい」と呼ぶそうだ(由来がおもしろいので気になったら調べてみるといい)。
また、リニアモーターおじさんを忌避するあまり、自分がにわかファンでいることを過剰に正当化するようになる人たちも何人も見てきた。めんどくさい人たちとのしがらみを避けるために、その趣味の界隈の人間関係から距離をとったり、ディープにディグること自体を忌避したり。
どんなジャンルであれ、こういう状況を野放しにしてると、新規ファンが入らなくなり、ジャンルごと廃れる。そうやって勢いを失っていったカルチャーをいくつも見てきた。プロレスの有名な言葉に「マニアがジャンルを潰す」っていうのがあって、これはあらゆるジャンルに言えることだと思う。
趣味の”スリープモード”を自分に許すこと
改めて、お金と時間の配分について具体的に筆者の例を挙げよう。
「仕事と趣味の両立」に加えて、多趣味だと「趣味と趣味の両立」も重要になる。複数の趣味をどのように同時に運用してるかといえば、いかにタイミングよく趣味をスリープモードにする=開店休業状態にするかって点に尽きる。
多趣味だからといってすべての趣味が同時に走ってるわけじゃない。スポーツであればシーズンのオンオフがあるし、音楽でも話題作のリリースラッシュがあれば、しばらく目立った新作がない時期もある。
もっと言えば、ライフステージも大きく影響する。仕事や育児に追われてあまり趣味に触れられない時もあるし、単純に自分の気持ちの盛り上がりにも波がある。
たとえば、元々同人活動をしていた人が育児に追われてしばらく絵を描くことから離れ、「もうイラストが趣味とは言えないかな」なんて言うのを聞くと、とても悲しい気持ちになる。
休業期間があってもあなたは絵が好きだったはずだし、今も好きなんじゃないのか。
就活が終わってからサークルに復帰するように、趣味にもまた戻ってくればいい。「離れていた期間がある」とか「しばらく追っていなくて今のシーンについていけないから」とか、そういうことを負い目に感じていなくなってしまう人をなるべく出したくない。
今月一度も映画館に行っていなくてもあなたは映画が趣味だし、今週のトップチャートの曲を知らなくてもあなたは音楽が趣味だ。まずはそう思うことを自分に許してほしい。
また、お金についてより具体的に掘り下げると、自分の趣味のジャンルについて、あまり出費のかさまない部分を楽しめるようになると強い。
筆者にとって一番出費の大きい趣味であるスニーカー収集も、値の張るナイキやアディダスのスニーカー以外のところを楽しむようになったことでいくぶん節約ができてる。
どういうものの話をしてるかっていうと、パクりかたが雑すぎて逆に味のあるパチモノや、工事現場用の作業靴、聞いたこともないマイナーなメーカーの製品など、一般的なスニーカーマニアが目もくれないような安物のスニーカーだ。ディグっていくとこういうところにおもしろいものが眠ってるもので、単なる節約にとどまらず、楽しみかたの幅が広がって一気に視野が拓けたりする。
こうして着眼点のアレンジによって安あがりに楽しめそうなスイートスポットを探すってことを各ジャンルで繰り返してきた結果、いくらでどれだけ楽しめそうかを見定める目が養われてきたように思う。
たとえば最初の段落で触れたジャンプ打ち切り漫画の単行本なんかは、Amazonやヤフオク!、メルカリで悲しいくらい安く購入できる(中古本が1円で買えるものも多い)。そういったイニシャルコストの低いものから触れはじめるのもひとつの手だ。

死ぬまでワクワクしたいわ
多趣味でいて何より楽しいのは、趣味によって自分が拡張されていく感覚だ。
「自分はこれをおもしろがれるのか」「あれにも魅力を感じとれるのか」っていうふうに、自分で思っていたより自分に幅があることを感じとれると、自分にわくわくし続けていられる。
BLがわかりやすい例で、筆者は女性愛者だけれど、フィクションに限ってはBL的な尊さを感じるツボが明確にある。もちろん本物の腐女子とは種類の違う感動だとは思ってるんだけれど、極めて生理的な部分について、身の回りの腐女子とはとりあえず問題なく会話が成立してる。似たような感覚を持っている人はけっして少なくないんじゃないだろうか。
冗談抜きに、筆者はこれこそが「審美眼」なんじゃないだろうかと思うんだ。
ある物事へのリテラシーが上がり、自分の好き嫌いを超越したところでその物事のよさが感じとれるようになる。この感覚は、音楽誌での批評の仕事に直接活きてる。
筆者が批評で取り上げる作品は、自分の好みのものばかりじゃない。好みかどうかと訊かれたら間違いなく好みでないものもすすんで取り上げてるし、その作品の何がいいのかを滔々(とうとう)と語れる。自分の好き嫌いっていうバイアスから逃れて、ひとつの存在のすばらしさについて言葉を尽くしてる時間は、エゴから自由になったような、少しいい人間になれたような錯覚を覚えさせる。
それに、他人の好きなものに寄り添って一緒におもしろがれる人は、多様な主義・信条・趣味嗜好が顕在化して、衝突が起こりやすい今の時代を、人一倍楽しく気楽に暮らせるはずだって信じてる。
なるべく多くのジャンルについて、こういうふうに自分の好き嫌いを超越した感覚を身につけたいと思っていて、そのことが多趣味でいる原動力にもなってる。
軽薄に興味を持ってのぞいて、丁重に敬意を持って飛びこむ。敬意さえしっかり伝えていれば、どんなジャンルでも先輩たちは優しくしてくれる。
繰り返しになるが、趣味は100%自己満足するためのものだ。願わくば自分の自己満足をゴキゲンに謳歌しつつ、目の届く範囲の他人の自己満足もカラッと祝福していたい。審美眼に自信が持てるジャンルを増やしていけば、より広い範囲に目が届くようになるはずだ。
この記事を書いた人

ヒラギノ游ゴ(ひらぎのゆうご)
平成東京生まれのライター・編集者。音楽・お笑いをはじめとするユースカルチャーについて寄稿。多趣味を標榜し、90〜00年代ストリートカルチャー、スニーカー、アジア圏のポップ・ミュージック、お笑い、ジェンダーをめぐる社会的課題、大相撲など多岐にわたる関心事の情報収拾を日々行う。
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