最近、インターネットで「ブスという言葉をこの世からなくそう」という発言をよく見るようになった。とても良い風潮だと思う。私も、そういう世の中になることを切に願う。

けれど、その論を支持する流れで「自分のことをブスなんて思っちゃダメ!」「自分を可愛いと思わなきゃ!」と発言している人もいて、そういう意見を見ると、私は少し違和感を覚える。

他人にブスなどと言うのは絶対にあってはいけないことだけど、それと「自分の容姿をどう評価するか」はまた別の話だ。

自分を美しいと思うのは、他人から強制されるようなことなのか。自分の容姿を美しいと思えないのは、他人から否定されてしまうことなのか。

私はそうは思わない。もちろん、自分の容姿に高得点をつけられたら素敵だけど、じゃあそれができない人は幸せになれない……なんてことはないと信じている。この記事では、その理由について書こうと思う。

自分を美しいと思えない人、周囲からの「自分を可愛いと思わなきゃ!」という善意の圧力を息苦しく感じている人に読んでほしい。

「自分を可愛いと思わなきゃ!」と言われても……

私は、自分の容姿を「やや不美人」と評価している。化粧していて40点、すっぴんで25点くらいだ。

10代の頃は、そのことでとても悩んでいた。

当時も、冒頭で触れたように「自分のことブスなんて思っちゃダメ!」「自分を可愛いと思わなきゃ!」と言う人は一定数いて、私もそう思えるようになりたかった。少しでも可愛くなれるようメイクや服を研究したし、自分に何度も「あなたは可愛い」と言い聞かせてみた。

けれど、どうしたって自分を可愛いとは思えない。そして、「自分を可愛いと思えないのは、私がネガティブだからだ」と、自己否定に陥った。

30代の今も相変わらず、私は自分の容姿を25点と評価している。けれど今は、そのことにネガティブな感情はない(理由は後述)。ただただ「25点だなぁ」と思うだけだ。

それなのに「自分に低い点をつけるのはネガティブだからダメ! 女の子はみんな、一人ひとり100満点なんだから!」などと言われてしまうと、なんだかなぁ、と思う(実際には私がそう言われたわけではないのだけど、そういう発言を多く見かける)。

そういう発言が、「容姿に自信のない人に自信を持ってほしい」といった善意からくる励ましであることは、もちろんわかっている。だから、その前向きさは尊敬するし、気持ちはありがたいのだけど、どうしても「自己採点くらい自由にさせてくれよ」と思ってしまうのだ。

私は普段、人に対して「私なんてブスだし……」と言うことはない。それを言えば、相手に「フォローしなきゃ」と気を遣わせてしまうし、お互いにとって楽しい会話になると思えないからだ。主張のために表明せざるを得ない場合(この原稿とか)を除き、自己評価が25点であることはなるべく口にしない。

しかし、「言う」ことと「思う」ことは違う。自分を不美人だと心の中で「思う」ことまで、他人から制限されたくない

それに、「自分を可愛いと思わなきゃ!」という意見は、容姿至上主義に基づいた考え方ではないだろうか。事実、そう発言する人の中には「ブスより美人のほうがいいに決まってるんだから」と続ける人もいた。

たしかにこの社会は、容姿が優れている人のほうが得をするようにできていると感じる。だからこそ私は、その価値観に少しでも抗いたい。「美人のほうがいいに決まってる」という前提を持ちたくないし、その前提にしたがって「だから自分を美人だと思えるようになりなよ!」なんて、言われたくないし言いたくない。

美人だろうが不美人だろうが、人間の価値に優劣はないのだから。

「美人じゃないと、自分を好きになっちゃいけないの?」

自己認識が不美人にあることと、自己肯定感が低いことは、必ずしもイコールではないと思う。

そもそも自己肯定感とは、「自分は大切な存在だ」という感情のことを指すらしい。

ということは、「自分の容姿に100点をつけること」だけでなく、「容姿が25点の自分を肯定し、大切に扱うこと」もまた、自己肯定感が高いと言えるのではないだろうか?

私がそう考えるようになったのは、知人のひとみさん(仮名)がきっかけだった。

ひとみさんは話していてとても面白い、魅力的な女性だ。仕事面では多くの成果を出し、恋愛面ではとてもモテる。

失礼だけど、彼女の容姿は美人とは言い難い。周囲からは、「その顔でなんでそんなにモテるの?」と不思議がられるそうだ。ひとみさん自身、自分の容姿を「ブス」と評している。

それについて、彼女はこう言った。

「自分をブスだと思うことの何が悪いの? 美人じゃないと、自分を好きになっちゃいけないの? 容姿なんてただの顔のデザインじゃない。私のデザインは不恰好だけど、私らしくて面白いから好きよ」

「負け惜しみじゃなくて心底、美人に生まれなくて良かったと思ってるの。この顔だからできた経験がたくさんあるもの。だから、生まれ変わってもまたこの顔がいい」

私はその言葉にハッとした。自分をブスだと思っていても、自分を好きでいることや、自己肯定感を持つことはできるのだ

どうすれば、そのような自己肯定感を身につけられるのだろう?

そう尋ねると、ひとみさんは「昔は自分が嫌いだったけど、就活とか仕事とか、目の前のことを頑張ることで少しずつ『私、頑張っててエライじゃん』って自己肯定感が芽生えていったの。そしたら自然と、自分の顔も好きになった」と言った。

それを聞き、私は救いのようなものを感じた。闇雲に「自己肯定感を持て」「自分の顔を好きになれ」と言われても、どうしたらいいのかわからない。けれど、コツコツと仕事を頑張ることなら私にもできるから。

私は「自分を可愛いと思わなきゃ!」と笑顔で迫ってくる人を見るたび、ひとみさんのことを思い出す。

自分の容姿を美しいと思っていなくても、こんなに素敵な人はいるのにな。

どんな容姿だろうと、無条件に自分を大事に思っていい

私には幼い姪がいる。みっちゃんというのだけど、私は彼女に会うたび「可愛い~! もう、なんでそんなに可愛いの!?」と言わずにいられない。

別に、みっちゃんの自己肯定感を育てるために褒めているわけではない。愛しくてたまらなくて、自粛しようにもつい「可愛い~!」という言葉が漏れ出てしまうのだ。

しかし、改めて客観的に見ると、みっちゃんはお世辞にも容姿が優れているとは言えない。

けれど、そんなことは私にとってまったく重要ではない。たとえみっちゃんがどんな顔だったとしても、彼女は私にとって大切なお姫さまだ。容姿が優れているから大切、そうじゃなければ大切ではない……なんてことはない。

「○○だから好き」ではなく、みっちゃんだから好き。理由なんてなく、私は彼女を無条件で全肯定している。

ふと、思う。

彼女のことが「みっちゃんだから」というだけで大切なように、自分自身のことも「自分だから」というだけで大切に思えないものだろうか?

どんな容姿であれ、「自分だから」というだけの理由で、無条件に大切に思っていいはずだ。だって、自分は自分として生きていくしかないのだから。

そのことに気づいてから少しずつ、私は自分を大切に思えるようになってきた。

自分の容姿を25点だと思っているのは相変わらずだけど、25点であることも含めて、私は私。決して美しくはないけど憎めない、いつまでも付き合っていきたいヤツ。今は、自分のことをそんなふうに感じている。

「自分は可愛くない」と思っている人を、その感情を否定したくない

昔も今も変わらず、私は私の容姿を25点だと思っている。

昔と今とで違うのは、この顔に「愛着」を感じるようになったこと。35年使い続けている顔なので、実家の古いタオルケットみたいに愛着がある。私なりに、大切にしているつもりだ。

もちろん、100点を目指すのが悪いとは思わない。より美しくなるために、容姿を磨く努力をするのも素敵なことだし、私だってできる努力はしているつもり。

だけど、たとえ100点や90点をつけられなくても、「25点だけど長年使ってる顔だから愛着がある」という考え方もアリじゃないだろうか。少なくとも、私はそれで満足だ。

それなのに、他人から「自分に高得点をつけろ」と言われたら弱ってしまう。

私が25点で幸せだって言ってるんだから、それでいいじゃないですか。もうこれ以上、私の考えを改めさせようとしないでください……と、思う。

私は、「自分は可愛くない」と思っている人の、その感情を決して否定したくない

自分を可愛くないと思う人は、多かれ少なかれ、一度はそのことで悩んだことがあるのではないか。その葛藤を乗り越えた人もいれば、現在進行形で苛まれている人もいるかもしれない。

どちらにせよ、すでに傷ついた経験を持つ人に「そんなネガティブなこと思っちゃダメ」なんて、どうして言えるだろう。

容姿に悩む人を前にしたとき、私は気の利いたことのひとつも言えない。

けれどせめて余計なことは言わずに、ただその気持ちを受け止めたいと思う。

<イラスト/絵と図 デザイン吉田>

この記事を書いた人

吉玉サキ

吉玉サキ(よしだま・さき)

北アルプスの山小屋で10年間勤務したのち、2018年からライターとして活動。不登校、精神疾患、バックパッカー旅、季節労働など、自身の経験を生かしたエッセイやコラムを書いている。

Twitter:@saki_yoshidama

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