先日ある人が、30歳なのに彼氏がいない、仕事はあんまり楽しくない上に給料は安い、また今後上がる見込みもない、この先に何も楽しいことがある気がしない……と、出口の見えない悩みを吐き出しているツイートを見かけた。

私も、細部は違えど似たようなものなので、この悩みがまったくわからないわけではない。30歳になってから数年経つけど未婚だし、一応所属している会社はあるけど正社員ではない。会社の仕事以外に個人でライターとしての仕事も受けているので、複業ライターです、自分の好きなことをしているんですといえば聞こえはいいが、フリーターや非正規雇用と何がちがうの?  と問われると言葉に詰まる。

抱えている問題への具体的な打開策が見つからずに、ずっと同じところをぐるぐるしている。とにかく他人の持っているものがうらやましくて、まわりに置いて行かれているようで孤独を感じる。こういった感情を、「まったく身に覚えがありません!」と清々しくいえる人はめずらしくて、きっと多かれ少なかれ、「わからんでもない」と思う人は多いのではないだろうか。

ただ、このツイートをしていた人は、「私は他人の持っているものがうらやましい」と自覚できているぶんだけ、実はまだマシなのではないかと私は思ったりもする。うらやましいという気持ちや嫉妬する気持ちが自分の中にあることに気がつかなくて、あるいはプライドが高いために認められなくて、それが他者への攻撃に転じてしまっている人も少なくない数いるからだ。

「他人がうらやましい」のは、とても自然な気持ち

先日見かけた、別の人のツイートの話だ(Twitterの話題ばかりで恐縮です)。その人は専業主婦を名乗っていたけれど、保育園の送迎を両親(子どもにとっての祖父母)に任せて仕事に出かける母親を批判していた。輝きたいだの、やりがいが欲しいだのといって仕事を続ける母親は、子どもを持つ身としては自分勝手なのではないかというのが、その人の言い分らしかった。

だけど、このご時世に輝きたいだの、やりがいがほしいだのという理由だけで仕事をする人なんて、ごくわずかだろう。そういうのはあくまで「あれば望ましい」レベルの話であって、まずはお金のために働いている人が大半だ。というか、一万歩譲って批判を受け入れるとしても、なぜ母親だけがそれを責められなければならないのかという話になる。

少し私の邪推が入るけれど、この専業主婦を名乗っていたアカウントは、本当は、「仕事に出かける母親」が、すごくうらやましかったんじゃないかと思う。母親である女性が家庭以外の居場所を持っていることも、まわりに子育ての協力者がいることも、夫の収入だけに頼らなくていいことも。

さらにいうと、そのアカウントが本当に専業主婦なのかどうかも疑わしい。もしかすると、居場所のなさなどに悩んでいる会社員の男性が、家庭も仕事もどちらも持って頑張っている女性に、嫉妬したのかもしれない。あるいは、私のような未婚女性が、「あの人はいつも残業せずに帰れていいなあ」などと、影で「仕事に出かける母親」をうらましがっているのかもしれない。

他人を「うらましい」と思ったり、嫉妬したりするのは、とても自然な感情だ。さらにいうと、「あいつを引きずりおろしてやりたい」「人の不幸は蜜の味」といった気持ちも、多かれ少なかれ誰もが抱くものだろう。

他人の幸せを心から祝福できる人間になれたら素晴らしいけれど、ちょっと意地悪な言い方をすると、それができるのは自分が上手いこと「持つ側」にまわれた時に、同じような「持つ側」の人間を祝福できているだけの場合も少なくない。

自分が運悪く「持たない側」になってしまった時も、同じように他人の幸せを祝福できるのか。あるいは、自分が「持つ側」の人間である場合、「他人の幸せが祝福できない」という人が見ている世界に思いを馳せられるのか。

「持っている」ように見える人だって、本当は問題を抱えているはず

SNSと一切関わらずに生きていくのは難しいこの現代において、私たちはいつも嫉妬の感情を刺激されている。インスタで沖縄の真っ青な海と空を見せられたらやっぱりうらやましいし、素敵なパートナーや彼氏に愛されまくっている人がいたらそれもうらやましいし、仕事でバリバリ結果を残して出世していく同世代もまたうらやましい。

私なんかは未婚だし、仕事はフリーターみたいなもんだし、「人様にうらやましがられるようなものは何も持ってないよ」というスタンスでふらふらしているんだけど、そんな私でも「いつでも海外旅行に行けてうらやましい」「職場の労働環境と人間関係が良くてうらやましい」と言われることがある。

本当はたぶんみんな、都合の悪いことはSNSや飲み会では言わずに、そっと胸にしまっているだけなんだけど。「持っている」ように見える人だって、本当はいろいろ厄介な問題を抱えているのだから、うらましがる必要なんてまったくないのだ。

「みんなひとつやふたつうしろめたいとこ、持ってるんじゃないの」とは、私が最近ハマって読んでいる向田邦子の代表作、『阿修羅のごとく』の長女のセリフだ。面白くて映画も観てしまったのだけど、この物語は、父親に愛人とその子どもがいることを知ってしまった、四姉妹の人生が描かれている。

大竹しのぶが演じる長女は、夫に先立たれ仕事先の既婚の男と不倫をしている。だから、いまいち父親のことを責めきれない。一方で黒木瞳が演じる次女は、夫が職場の部下と不倫している疑惑を抱えており、ゆえに父親の不倫も絶対に許せない。深津絵里が演じる三女は男っ気のない独身。そして深田恭子が演じる四女は、ボクサーの彼氏と同棲しているが、その恋愛は他人から見えるほど順風満帆ではないようだ。

互いへの不信と疑心暗鬼とが混ざりながらドタバタと物語は進むのだけれど、決してきれいごとだけではない家族や夫婦のコミカルな人間模様を見ていると、「醜い感情」もまた味だ、と思える。人間なんてそんなものだし、みんな言わないだけで、いろいろあるんだろうと腑に落ちる。シミもシワもまったくない赤ちゃんみたいな肌にももちろん憧れるけど、シワだらけのオードリー・ヘップバーンだってまた美しいだろう。人間の心も同じだ、と思うことができる。

他人への嫉妬も「思ってしまった」だけなら無罪のはずだ

他人をうらましいと感じること、嫉妬してしまうこと。繰り返すけれど、これはとても自然な感情だ。そういった感情が刺激されやすい現代に生きているのであれば、なおさらである。あまり無理に自分の心を正しい方向に引っ張ろうとすると、どこかで摩擦が生じる。ポジティブに、明るくいられない自分を責める必要なんてない。それはそれ、これはこれで、他人の幸せを素直に祝福できなかったとしても、他人の幸せを邪魔さえしなければ、それは決して罪にはならないのだから。

気をつけなければいけないことは、自分の醜い感情を、「これは嫉妬だ」と自覚せずに、他者への怒りの気持ちや攻撃として発信してしまうことだ。「共感」はポジティブな意味で使われることが多い言葉だけど、怒りや嫉妬や憎悪も、「共感」によってつながって増殖する。専業主婦を名乗る人物が母親批判をしていた件のツイートは、1500回以上RTされていた。もちろんそのすべてが賛同というわけではなく、反論するためであったり、備忘録的な意味でのRTだったりもするのだろう。しかしいずれにせよ、人の感情を逆なでする発言を拡散することは、対立を煽ったり溝を深める行為じゃないかな……と思う。

「怒り」には、現状を変えて物事をプラスの方向に引っ張っていく力が確かにある。怒りをもって不条理な世の中に抗議すること、不正のある組織や上司を告発すること、どちらもとても意味のあることだ。だけど、マイナスの方向へ引っ張っていく力も同様に強い。怒りや悲しみに耐えるべき、我慢すべきということではない。ただ、自分の怒りや憎悪が、余計に対象との溝を深めてしまうものでないかは、発信する前に慎重に考えたほうがいいかもしれない。

他人への嫉妬も怒りも、「思ってしまった」だけなら無罪のはずだ。他者を攻撃せずに、しかしきれいな人間を志しすぎて自分が死んでしまわないように。私たちに求められているのは、このあたりのバランス感覚ではないか、と思う。

それでも出口が見えないときは、一度視点をずらしてみる

しかしバランスをとれるようになってもなお、出口が見えない悩みにハマって問題への打開策が見つからず、頭の中がぐるぐるしてしまうこともあるだろう。そんな人に私がおすすめするのは、「一度視点をずらす」ことだ。私自身が、行き詰まりを感じた時によくやっていることでもある。

誰かへのうらやましさや現状への閉塞感で息が詰まりそうになったり、嫉妬の気持ちが憎悪に転じ始めてきてしまったら、一度そのことをすっかり忘れてみてほしい。どうやって忘れるのかというと、「今・ここ・自分」とは関係のない世界の物語や、ドキュメンタリーに触れる。たとえばSF小説とか、南極探検の話とか、原始時代の研究とか、宇宙のこととか。ちなみに私が今読んでいる本は、アルゼンチンの最南端にかつて生存していた「セルクナム」という民族についてのノンフィクションである。

「今が切羽詰まっていて落ち込んでいるのに、そんな話に興味が持てるわけがない」と反論する人もいるだろう。私としても、「とにかく騙されたと思ってやってみて」とゴリ押しするくらいしかできないのだけど……。恋愛に悩んでいるから恋愛の本を読む、失恋したから失恋ソングを聞く、仕事に悩んでいるから仕事関係のセミナーに行く。一見それらは近道のように思えるけれど、少しでも余力があれば、ちょっと意識して「今・ここ・自分」とは関係のない世界に、本や映画やアニメや旅行で、触れてみてほしい。理由は、「今・ここ・自分」にとらわれすぎていると、どうも人間は近視眼的になるからだ。

一度「今・ここ・自分」を忘れて、できる限り遠くまで、精神的に旅をしてみてほしい。もちろん、本を読むだけでは現実は変わらない。だけど、旅をしてぐるっとまわって戻ってくると、最初とは少しだけ、自分の立つ場所がずれている。そしてそこから、新しい世界が見えたりする。現状は確かに、何も変わっていない。変わるのは自分が立っている場所だ。でも、立つ場所を変えれば同じ現実でも違って見える。

他人をうらましがったり、嫉妬したり、そういう気持ちを抱くのは罪じゃない。ただ、他人のその幸せを邪魔しなければいい。心には陰を落としているくらいでちょうどよくて、正しく、明るくなんて生きなくていい。

そう思うだけで、私たちはもう少し快適にこの世の中を生きていける気がする。