「Dybe!」の編集者がぼくのツイッターアカウントをフォローしてくれたので、フォローを返した。すると、ものの1、2時間でDMが来た。

ツイッターのDMそのものには詳細な要件は書かれていなかった。Facebookページの方にメッセージを送ったから読んでくれ、とだけあった。渾身のFacebookメッセージを絶対見落とされてなるものかという強い意志を感じた。バリバリ働くタイプの人だなあ。

メッセージを読むとそこにはまず、ぼくの著作を読んだというアピールがあり(フフッ)、その後にようやく本来の要件が書かれていた。

「『ワークとライフの境界線がない働き方』について書いてくれんかの?」

こんなオーキド博士みたいな口調ではなかったけれど、このオファーを受けないと物語は始まらないんだろうな、と漠然と感じさせるような文面だった。

ワークとライフの境界線がない働き方……か。確かに、ぼくはそこにあまり線を引かないほうの人間である。

線を引くのはおっくうだ

世の中には、座右の銘的なものを胸に抱いて、真実一路堂々と生きている人がいる一方で、もう少しぼんやりと、その場その場でマアこんなもんかナーくらいの気持ちで日々をやりくりしている人もいる。

ぼくはどちらかというとその場しのぎ型の人間で、というか、現代に生きるたいていの人はそれほど強固なポリシーで暮らしていないんじゃないかと思わなくもないのだが、とにかくぼくは、「朝食は絶対に米!」とか、「横断歩道を渡るときは右足から!」とか、「ホームランを打ったら天に指を突き上げる!」みたいな強い決め事は持っていないし、「ワークとライフはきっちりわけないとだめ!」とも思っていない。

いつだって、何に対したって、さじ加減はこんなもんかナーくらいの気持ちでフワフワしている。

「ワークはライフとは別! 勤務中には自分の都合でツイッターなんかしちゃだめ!」という線を引くのが面倒だ

「5時を過ぎたら仕事のメールなんて読まないよ! ライフとワークは別!」という線を引くのがおっくうなのである

今期、「私、定時で帰ります」というドラマを楽しく見ているが(吉高由里子さんがんばってください)、ぼくには6時に退勤しても6時10分までビールが安く飲めるなじみの中華料理店というのが存在しないので、あのドラマは好きだけれど、定時で帰ることをポリシーにはできない。

これは別にぼくの心根がブラック企業だからだというわけでもないと思う。単に、そこに線を引かないということにすぎない。

「今日は夕方4時まで働いたら疲れたから、4時から5時の間はツイッターでも見とくかな」という日がある。あんまり馬鹿正直に書くと事務長に怒られるかな。でも、別にいっつも時短勤務しているわけじゃない。

「気づいたら深夜2時だけど、この顕微鏡写真だけ撮っちゃったほうが明日楽しく働けそうだな」という日もある。これはこれで怒られるかな。

誰に怒られるかというと、「働かないことは悪だ、と線を引く人」や、「働きすぎることは悪だ、と線を引く人」に怒られる。前者はブラックで昭和、後者はフレックスで令和、ときっちり分けられるものでもない。そういうのが融合してできているのがぼくなのだ

……自信あって言うわけではないけれど、おそらくは、みなさんだって、そうだ。

昔はワークライフバランスに普遍性があったけど

ぼくがこうしてカタカタ書いて、あなたが今こうして読んでいるようなWeb記事においては、「線を引くタイプのエントリ」が好まれる。

世の中にものがあふれていて、考え方も飽和している中、完全に新しいアイディアを生み出してドスンと皆さんの前にお示しするというのは、思った以上に難しいことだ。陳腐な言い方だけれど、「誰も思いついたことのないアイディア」はたいてい誰かが思いついたあとだし、「自分だけが見つけた真実」はたいていどこかに書いてある。

そんな中、いまだにWeb記事でなんかうまいことを言っている人は、今さら何を生み出し、何を語っているのか。ここにはからくりというか、メソッドがある。

  • みんながそれまでも漠然と思っていたことに、なんかうまい言葉をあてはめる
  • みんなが今までも見ていた物事を、きっちり区切って分類する

これだ。

完全に新しいことを生み出しているのではなく、古い物事を新しく区切り直して目新しさを産んでいる。

世にいうクリエイティブと呼ばれた仕事を丁寧に解析すると、結構な割合でクリエイト(創造)というよりクラシフィケイト(分類)とノミネート(任命・配置)とアプリケート(適用)だということに気づく。

横文字を多用することでぼくの知的レベルを高く見せようという魂胆が透けてきたので話を日本語に戻すが、つまり、「まっさらな画用紙に新しく描いたもの」のではなく、「すでに画用紙に描いてあるものを、線で区切ったり、囲ったりすることで、新しい見せ方になったもの」に、人は惹かれ、集まってくるのだ。

優れた書き手はきれいに線を引く

物事の境界線を引き直してリネームする。

「あなたはこう考えているかもしれないけれど、ちょっと視点を変えて、こう考えてみたらどうだろう」。

実際にそこにあるものは何も変わっていないのに、捉え方ひとつ、心のありようひとつで、世界が違って見えてくる。これはエネルギー効率的にすばらしいことだ。

実際にそこにあるものが何も変わっていないということは、つまりそこには労力が働いていないし、なんのエネルギーも注がれていないということだからだ。

見る角度を変えるだけ。数歩回り込むだけ。「区切り直し」て「とらえ直し」て「名前を付け直す」だけで、心が楽になったり、明日への活力が湧いてきたりする。

かつてナンシー関という人がいた。今はマツコ・デラックスという人がいる。昔も今もタモリという人がいる。

彼女らはみな、境界線を引き直す達人だった。

昭和から令和まで一貫して、当意即妙にうまいことを言う人があこがれを集め、引用され、ぼくらがさも何か新しいものをつかんだかのような気にさせてくれる。

ぼくらはかつて、テレビCMに胸を突かれ、大ヒットドラマのセリフひとつをリフレインし、ベストセラー小説の提示する生き方に賛否両論を集め、すでにそこにあった物事に絶妙の境界線を引かされてきた

ワークとライフをどう分けるか? これだって要は境界線の引き方ひとつである。

だから昔はワークライフバランスという言葉にある種の普遍性があった。

でも、昔と今では少々状況が変わった。このことは知っておいたほうがいい。

自分にあった境界線を探す

かつて、線を引き直す人というのは一流コラムニストや自己啓発本の著者であり、テレビコメンテーターやラジオDJであった。「うまいことを言える人」は誰もがその名を知る著名人ばかりだった。あるいは親や祖父母が「うまく背中を押してくれた」「目からウロコを落としてくれた」こともあったろう。

でも、家族や直近の上司をかき集めたところで、ぼくらが参照できる「境界線を引き直す人の数」は、せいぜい10人、20人くらいのレベルであった。自分でいったん引いた線を疑う機会も少なかった。

今は違う。

SNSに日替わりで、無数の「線の引き方」が提示される。ぼくらは毎日違う人を尊敬できる。参照できるアイディアの数、師匠の数が、無限に増えた。おかげで、ほかの誰とも違う、オーダーメード方式の線がたやすく引けるし、極論すれば毎日違う線を引くこともできる。

ある人は「ワークをライフのように楽しむための気の持ちよう」を語り、ある人は「ワークを手段と割り切ってライフのためにエネルギーを振り分けろ」と言う。

ある人が5時に引いた境界線を、ある人が26時に引き直す。ぼくらはそれらを毎日参照しながら、何度も何度も線を引き直し、自分にあった線の位置を探っていく。

最適解はない

ぼくは冒頭にこう書いた。

“世の中には、座右の銘的なものを胸に抱いて、真実一路堂々と生きている人がいる一方で、もう少しぼんやりと、その場その場でマアこんなもんかナーくらいの気持ちで日々をやりくりしている人もいる。

ぼくはどちらかというとその場しのぎ型の人間で、というか、現代に生きるたいていの人はそれほど強固なポリシーで暮らしていないんじゃないかと思わなくもない”

現代は、スマホにその時流れている言葉に従って、その場をいかにうまくしのぐかという時代であると思う。

座右の銘がどうとか言っている人は考え方が古い。

一つのことわざとか偉人の名言を後生大事にして生きていける時代ではないのだ。

ぼくらは電車のホームでぼんやりスマホをフリックしているだけで、無意識のうちに無数のコラムニストたちに触れ、多様すぎる価値観によって自分の線を分単位で引き直す。

ワークとライフのバランスはこうしたほうがいいよ、みたいな最適解なんてもうない。ぼくらは一つの価値観では暮らせない人間に進化してしまった。退化とは言わない。退化と言ってしまったら悲しすぎる。

ぼくらが気にするべきは、ワークライフバランスみたいな旧元号時代の言葉ではない。

いつだって、「今日の名言」を大事にしながら、毎日少しずつ変わっていく自分の心に、それでも誠実に向き合っていくしかないのだと思う。

お気づきの方もいるかもしれない。実はぼくはこの記事の中で、「線を引かないやり方をしたほうがいいんじゃないのかなー」という線を引いた

線を引く人と引かない人というクラスタを、対立事項として皆さんの頭の中に浮き立たせた。

線を引かないほうがラクだぜ、という、自己啓発本のような言葉を用意した。

こんなおじさんの話をまじめに聞かない方がいい。後生大事に抱えるような言葉はここにはない。というかどこにもない。線を引くやり方と線を引かないやり方の境界線だって、ほんとうは、もう少しあいまいなはずなのだから。

この記事を書いた人

病理医ヤンデル

病理医ヤンデル(びょうりい・やんでる)

本名:市原真(いちはら・しん)。1978年生まれ。2003年北海道大学医学部卒、国立がんセンター中央病院(現国立がん研究センター中央病院)研修後、 札幌厚生病院病理診断科へ(現、同科医長)。医学博士。病理専門医・研修指導医、臨床検査管理医、細胞診専門医。日本病理学会学術評議員。 著書に、『病理医ヤンデルのおおまじめなひとりごと』『Dr. ヤンデルの病院選び 〜ヤムリエの作法〜』などがある。

Twitter:@Dr_yandel

Instagram: @dr_yandel

ブログ:脳だけが旅をする

Podcast:いんよう!

note:Shin Ichihara/Dr. Yandel|note