大学3年の冬、朝から晩までプレステの電源をONにしっぱなしでウイニングイレブンばっかりやっていたら、就職先の内定が白紙になりました。それは、俺のクラブチームの選手(CG)がコナミカップで良い結果を出せないからではなく、突如リアルの俺を襲ってきた病魔、白血病のせいでした。

大学を卒業すると、同級生たちは就職し、それぞれに公務員や商社マンなどの肩書きを持ち始めました。俺は「大病と闘う人」として、放射線治療を受けること、抗がん剤の吐き気に耐えながら安静にすることが日々の業務となりました。

半年後、運良く生きて帰ってこれたものの、「大病と闘う人」という肩書きがなくなった俺は、何者でもなくなってしまいました。

「お前は何者だ? お前の居場所はどこなんだ?」

何者でもない人間に対して、社会は容赦なく現実を突きつけてきます。

ドラクエの“ひのきのぼう”すら装備してないレベル0の俺は、同級生の仕事の愚痴ですら素直に聞くことができませんでした。たとえば上司の愚痴を聞いている最中は、心の中でずっとその上司を応援していました。

まぁでも、このままではいけないよな……。

俺は学生の頃にやっていた家庭教師のバイトを再開しました。そして、教える場所を賃貸の掘っ建て小屋に移し、あたかも小さな学習塾を経営しているかのように見せかけることに成功しました。

ひとまずこの隠れ蓑で「何者か」になれたのではないか。当時の俺はそう信じていました。

俺だって、リリーをフランキーしたい

27歳。いつものように我が“隠れ蓑塾”のシャッターを閉めて帰宅し、テレビをつけると俺の大好きな「情熱大陸」がやっていました。大陸カメラの前で、リリー・フランキーさんが気ダルそうにリリー・フランキーしていました。

彼は文筆家であり、絵本作家や俳優でもある。なんでもできて、だから何やってるかよくわかんない。あと、なんて言うか、必死でやってるはずなのにその苦労を微塵も見せない。おまけに下ネタを言っても「セクシー」だと評されるのはなんなんだ、カッコいいなぁ畜生。

そんな彼の姿がテレビの画面を通して、田舎で時間稼ぎしていた俺の心を動かしました。

リリー・フランキーに俺もなりたい。

俺だって、リリーをフランキーしたい。

この記事を読んでくれている人も、一度は思ったことがあるんじゃないでしょうか。え? 自分は宮藤官九郎さんになりたいって? いいですよね、クドカンさん。あの飄々としたマルチな感じが……え? 小山薫堂さんじゃダメかって? ダメなもんですか、「くまモン」と「おくりびと」の両方を作ったというギャップが最高じゃないですか。

……でも俺は最初に憧れた、あのリリー・フランキーさんみたいな生き方がしたいと思ったのです。

それから俺は、塾の仕事を続ける傍ら、イラスト付きのブログを書いたり、誰が見てるかもわからない短い動画を作ってネットに上げたり、悪あがきのような自分探しを続けました。

34歳。東京でリリー・フランキるために、俺は塾のシャッターを閉めて、その鍵を大家さんにお返しすることにしました。リリーさんが憧れた「東京タワー」に、ひとまず俺も憧れてみることにしたのです。そういうのは学生の頃にやっとけって話ですが。

俺がリリー・フランキーになるためにしてきたこと

上京を決意する前、地元の市が運営していた短編映画制作のワークショップに、自称映画好きとして3日間だけ通ったことがありました。そこでは公平に参加者全員の意見を取り入れないといけなくて、俺が事前に準備したシナリオはディスカッションの後、ほぼ原型をとどめていませんでした。

お盆に1日だけあの世から蘇ってきた妻と、この世に残された夫が、せっかく一緒にいられるのに終日パチンコに行って貴重な1日を過ごしてしまうという内容で、どっちみち最初の投票の段階で採用されてもいなかったのですが(笑)。

ただ収穫はありました。絵コンテを描いたことがきっかけで、漫画を描くようになったのです。絵コンテと4コマ漫画はよく似ています。物語の個々のシーンを切り取って並べるだけで、最初から最後までひとりでお話を作ることができる。

それにどうやら、俺はひとりでやるのが向いているらしい。この気づきは、いつも誰かに拾い上げてもらうのを待ってばかりいた、甘ったれた自分にとって大きな発見でした。

調子に乗った俺は、短いギャグ漫画をたくさん描きました。PCのソフトを使えば、極論、白と黒でコントラストをつければ、下手でも一応漫画に見えました。

そういえばリリーさんも『おでんくん』を描いている……あ、でもあれは絵本か。いや、でも、短くても自分で最後まで描いた漫画は、絵本のようにも見えました。だってイラストに言葉が添えてあるし。

何より、最後まで描いてあるというのがとても良いと思いました。それまで小説や音楽など、いろいろと手を出してきたけど、完成させたことは一度たりともなかったのです。完成しているものは、人に見せて評価を得られるから素晴らしい!

俺はこの漫画を出版社に持ち込むために、いよいよ東京へ向かいました。

すると運良く、そのうちのひとつの漫画が、読み切り作品として雑誌に載せてもらえることになりました。人生の良い思い出ができたと、そこで漫画を終わらせることもできたのですが、なにせ調子に乗っていましたから、そのまましつこく描いていたら連載作品に化けてくれました。雑誌連載、これで晴れて漫画家です。

雑誌に載った時は嬉しくて嬉しくて、妻と東京の本屋さんをハシゴしたものでした。でも心のどこかで「こんなものか」とも思っていました。こんな下手でも雑誌に載るんだと。要は「最初の一歩を踏み出すかどうか」と「最後までやりきるかどうか」だけのことなんだなと、少し冷静な自分がいました。

初の連載作品は鳴かず飛ばずだったけれど、仕事は仕事を連れてくるものなのでしょうか、同じ出版社が「何か描きたいことはないか?」と、新規の連載の話を持ちかけてくれました。

描きたいことは決まっていました。上京する1年前に癌で亡くなったうちの母……もとい、オカンのことを漫画にしたいと思っていたのです。オカンとオレと、時々、エッセイ漫画。

エッセイ漫画なんて描いたこともなかったのですが、最初の1コマと最後の1コマを描けば、あとはあの絵コンテを漫画にした時と同じ要領でしょ? そう思い込み、まずは取り組んでみることにしました。

この時は母親の死と向き合うのに必死で無意識でしたが、病室で持ち込み用の漫画を描いていたりもして、今考えるとかなりリリーさんの『東京タワー』的というか、この母親についてのエッセイ漫画も後に(奇跡的に)映像化されたりするわけで、我ながら相当リリー・フランキってて大したものだなと思うんですが……そうでもないですかね?

リリー・フランキー度が増してきた最近の仕事

下手でも「形にする癖」がつき、自分が描いた物が作品として世に出始めると、「こいつは一応形にすることはできる人間なんだ」と認めてもらえたのか、ある時から漫画以外の仕事もいただけるようになりました。

たとえば、短い会話劇の台本とか、今書いているこのコラムなんかもそう。ラジオでお話するだけの仕事をいただいた時は、担当者さんに、本当にイラストを描かなくて大丈夫ですか? と、何度も確認を取ったこともありました。大して絵が上手いわけでもないのに、今思うととても恥ずかしい。

また、今年に入って「NHKで子ども向けのアニメの原案をやってみない?」とのお誘いがありました。コンペ形式だったけれど、俺は迷うことなく飛びつきました。どーもくんの腕に飛びつき、腕ひしぎ逆十字固めをしている姿をイメージしてもらうといいかもしれないです。

俺はすぐにこんなイラストを描き、企画趣旨を添えて送信ボタンを連打して提出しました。

おやころモチ/宮川サトシ

おわかりいただけますか? そう、大胆にも『おでんくん』を思いっきり意識したキャラクターデザインをぶっ込んだのです。20秒程度のショートアニメですが、この完全オリジナルアニメ『おやころモチ』の案はコンペを勝ち抜き、現在絶賛放送中です。

こうしてまたひとつ、リリーさんに寄せることができました。田舎者の俺でも、少しはリリー・フランキることができた。やってみればなんとかなるもんです。

最近はインタビューで「次はどんなものを描き(書き)たいですか?」と尋ねられても、答えに困らなくなってきました。今なら小説だって絵本だって、最後まで仕上げられる気がする。今朝も3歳の娘と子ども番組を見ていて、娘を膝に乗せながら、この子が喜ぶような歌詞を自分も書いてみたいなとか思ったりしてました。

きっと今まで勝手にハードルを上げていただけで、どんなことも自分がやりたいと閃いたことは、最初にやったことの延長線上にあるものばかりのような気がするのです。

シナリオやコラムやアニメの原案が漫画の延長線上にあったように、小説も作詞も「自分のアイデアを形にする」という点では、多かれ少なかれ同じなのではないのかなと。クリエイティブをナメるなと言われればそれまでだけど、取り組むのは自由ですから。

ねえリリーさん、もしかしたらあなたも、そうやってリリー・フランキってきたんじゃないですか?(違ってたらすいません……)

なんでもできるリリー・フランキってる生き方

漫画家としてデビューした時に、人にすすめられて名刺を作ったことがあります。あえて名前の前に「漫画家」の肩書きは入れませんでした。世間様に、業界関係者の方々に、そして手塚治虫先生になんだか申し訳なくて、ただ「漫画を描いています」とだけつけた気がします。公の場で自己紹介する時は、今だに「漫画家の」とはつけません(キャバクラや相席居酒屋ではつけます)。

この肩書きをつけない名刺は、仕事の幅を制限せず、むしろより広げてくれたように思います。そのうち名刺自体も使わなくなりました。フリーランスとして動くのに、俺にとってはそのほうが身軽に感じたのです。

できることが増えてくると肩書きが邪魔になり、そのうち自分が「何者」でなくても平気になってきました。あんなに「何者か」になりたがっていたのに不思議なものです。

ひとつの才能に特化していて、何者かでなければいけないと考えていた昔の自分に、デロリアンで飛んでいって「そんなものは思い込みだよ」と伝えてあげたい。飛んでいくということは『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』以降のデロリアンで、です。

ほら、「情熱大陸」で面倒臭そうに話してるリリーさんをよく見てみろよ、この人こそ何者なのかがよくわからないんだから。何者なのかよくわからない、そのなんでもできる可能性の多さ、そこにお前は憧れていたんだよって

……さて、自分が完全体のリリー・フランキーさんになるために、次は何をすれば良いのでしょう。やっぱり役者になることでしょうかね。『万引き家族』良かったもんなぁ。

鏡の向こうで突っ立っている華の無い自分の姿を見て、それは相当ハードル高いなと、今ちょっと頭を抱えています。

リリー・フランキーに、俺は今もなりたいんだけどなぁ。

この記事を書いた人

宮川サトシ

宮川サトシ(みやがわ・さとし)

漫画家。1978年岐阜県出身。2013年デビュー。最愛の人を喪った哀しみとそこからの再生を描いた自伝エッセイ『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』は、多くの共感を得た。原作をつとめるSFギャグ『宇宙戦艦ティラミス』のほか、『情熱大陸への執拗な情熱』『僕!!男塾』『ジブリ童貞のジブリレビュー』など話題作多数。

Twitter:@bitchhime