36歳、今の私には友達がいる。心友と呼べる存在がいる。

彼らに出会ったのは32歳の頃。たった4年前のことだ。正直言って、それまで「友達」といえる人はいなかったし、「友達」という存在すらもまったく信じていなかった。

そんな私に友達ができるまでのことを、赤裸々に書いてみようと思う。

同級生どころか女の先輩からも嫌われていた高校生活

私の母は、大阪の小さな町で靴屋を営んでいた。私と2歳離れた妹は“靴屋の娘”と呼ばれ、その町でちょっとばかり有名な姉妹だった。町の人から「可愛い」と言われて育ち、いつの間にかその言葉に慣れ、何をすれば褒められるかも幼心にわかっていた。

中学時代は勉強もできて、周りの人とうまく付き合えていたように思う。だが、高校生になってから、人付き合いに引っかかりを感じ始めた。

高校は私服で自由な校風。私は、当時流行っていたブランド「MILK」の服を着て、ロリータパンク風の格好で登校していた。でもここは、それなりに成績がよく、育ちもよく、落ち着いた生徒が集まる学校だ。派手な服を着て、軽音楽部のボーカル、おまけに同じ部のひとつ上の先輩と付き合っていた私は、良くも悪くも目立つ存在だった。

「この高校の生徒の中で、私が一番可愛い」

笑える話だけど、当時はそう思っていた。そのせいか、恥ずかしげもなく「夢はアイドル」なんてことを高校2年生まで言い続けていた。今なら赤面レベルだ。

こんな女、イラッとされるに決まっている。だから同級生には嫌われていた。同級生どころか、女の先輩たちにも嫌われていた。このとき私は「女から嫌われる女」なんだと初めて自覚することになる。可愛いと言われて育ってきた自信は、いつしかプライドに変わり、自分の中に深く深く根を張っていたのだ。

なんとなく居場所があるようでない高校生活。このまま3年間過ごすのかな……なんてぼんやり思い、心の中で、どこか同級生たちを見下していた。本当に、嫌な奴だ。

結局、青春と呼べる思い出もできないまま、高校を卒業。モデルのオーディションにトントン拍子に受かり、東京の事務所にスカウトされ、私は19歳で上京する。

東京という大海をさまよった駆け出しのモデル時代

夢と希望だけを持って東京に来たけれど、現実は週に1度カットモデルの撮影があるくらいで、たいした仕事はなかった。

未熟な私は、当時のマネージャーに怒られても、ただ落ち込むだけで何も改善しようとしない。そんな私には、輝きも価値もなかっただろう。せっかくスカウトして育ててくれようとした最初の事務所を、わずか1年で去ることになった。

しばらくして次の事務所に入ったが、待ち構えていたのは、毎朝一番に来て、会社の鍵を開け、トイレ掃除から始まる日々。雑務をこなし、モデルとしても働いたが、当時の社長から理不尽な言い訳をされて、給料が支払われないことのほうが多かった。

トイレの中で数え切れないほど悔し泣きをした。働いても働いてもお金がない。希望もない。時間もない。余裕もない。何のために生きているのか、光さえ見えなくなった。

自分の可能性を信じる気持ちはどこかへ行き、もう探し当てる気力も残っていない。目の奥は虚で、いつも何かに怯えていた。

それでも東京に居る理由はひとつ。

帰る場所がなかったから。

地元の同級生は、大学や専門学校で楽しそうな学生生活を送っている。そこに溶け込める自信がない。こんな状態でも、まだかっこつけたかった。ちょっとだけ雑誌に出て、ちやほやされ、まだまだ光を浴びていたかった。

だが、貧乏で人間不信になった人が、東京で生活を続けるのは難しい。居場所が欲しくて、ファッションブランドの展示会やモデル仲間の誕生日会など、たとえ仕事につながらない誘いでも無理をして足を運ぶ。本当に余裕がなくて、母から時々届く仕送りを貯めた封筒から1万円札を抜き取っては、お会計の金額にドキドキしながら参加していた。

しかし結局、当時知り合った業界の人で、今も親交の深い存在はほぼいない。心を閉ざしたあの頃の私は、自分の状況を説明する気力がなかったし、かっこ悪い自分をさらけ出す勇気もなかった。人に囲まれていたはずなのに、いつも孤独だった。

正直、ここに書いたこと以外に当時の記憶がほとんどない。東京という大海に溺れないように、生きるためにとにかく働き、毎月をどう乗り切るか、そんな状態だった。

自分をさらけ出しても大丈夫だと教えてくれたラジオの仕事

24歳の時に転機が訪れ、今の事務所に所属することになる。移籍当初は順調だったモデルの仕事も、26歳になると月を追うごとに減っていく。若くて綺麗な子はどんどん出てくる。アラサーに片足を突っ込んだ、身長も高くない、バランスも良くない、自分のモデルとしての価値はどんどん下がっていく一方だった。

このままではいけない。モデルの他に、新しい武器を手に入れなくては。ふと、好きなものを掘り下げたら何か見つかるかもしれないと思いつき、音楽を研究することにした。毎日のようにライブハウスに通い、知識を深めるために旬の情報を掘り漁る。

ある日、たまたま飲み会でラジオ番組のディレクターに出会う。私は思い切って、音楽カルチャーを勉強していること、ラジオでしゃべるのが夢であることを熱く語った。きっかけはどこに落ちているかわからない。その後、音楽をテーマにした新番組のパーソナリティを探していると連絡をもらい、事務所に内緒で宣材資料を持って、ラジオ局でのオーディションを受けた。

それまで受け身だった私が、自ら動いた初めての出来事だった。選ばれるのを待つのではなく、選んでもらうために行動したのだ。

2010年4月から番組がスタートし、4年間パーソナリティを務めた。ルックスを重視されることが多いモデルの仕事と違って、ラジオは顔が見えない分、話し方や言葉の選び方、もののとらえ方など内面が重視される。これまでの自分の「魅せ方」はまったく通用しない仕事だ。

毎日いろんなアーティストをゲストに招き、彼らが出演する20分はとにかく魅力を引き出さなきゃならない。会話はキャッチボール。どんなボールがきてもいいように、大きく構える。そして相手が受けやすいように投げ返す。相手の良いところを見つけてどんどん話を広げていく。

自分の知らない世界で戦う彼らの話を聞いて、人は「可愛いか」「可愛くないか」の物差しだけでは測れないことを学んだ。モデルという限られた世界でしか戦ってこなかった私は、いつの間にかこんなにも視野が狭くなっていたのかと驚いた。

昔は自分を見てもらうことだけに全力を尽くしていたけれど、今は目の前にいる人を受け入れ、その人たちを知ってもらうために動いている。ゲストやスタッフを信用して、リスナーに信用してもらって、それで楽しんでもらえる番組になる。チームワークの意味やコミュニケーションの大切さを、この番組で教わった。

心のスイッチに初めて“友達”というモードが増えた

ラジオの仕事のおかげで、人付き合いに対するトラウマはゆっくりと解けていく。人と出会うことを楽しめるようになり、積極的に外に出て行くようになった。

32歳を迎えたあるとき、仕事がきっかけで距離が縮まり、公私ともに仲良くしていた人からホームパーティーへのお誘いを受ける。とある家に行くと、男性カップルがニコニコと初対面の私を出迎えてくれた。そのうちのひとり、料理人の幸也との出会いは衝撃的だった。

テーブルに並ぶ幸也の手料理は、どれも絶品でセンスを感じるものばかり。いつか食に関する仕事をしてみたいとぼんやり考えていた頃だったので、強く興味をそそられた。そしてびっくりなことに、幸也と私は、歳は違えど誕生日が同じだったのだ。

共通点を見つける度に、うっすらと、でもしっかりと絆が深まることを確信して、初対面で「きっとこれからも仲良くいられる気がする」と言い合った。こんなのは初めてだ。男女の友情は成立しないとよく言われるけれど、彼との関係性は性別を越えたものだ。

それから私たちは、毎年12月25日に共通の知り合いを招いて、誕生日とクリスマスと忘年会を兼ねたパーティーを開くことが、恒例行事になった。幸也の家に集まり、彼が作るご馳走を囲んで、たくさん笑って飲んで、1年を振り返る。34歳を目前にしたこの日も、楽しく賑やかな夜になるはずだった。

しかし当日の朝に、私は結婚目前だった彼と喧嘩。そして、別れ話を切り出された。史上最低なクリスマス。自分が主役の日なのに、触れられるだけで涙が溢れそうなくらいギリギリの状態だった。みんなが幸せであるべき場所に、ひとり幽霊みたいな女がいる。そんな私をじんわり優しく、毛布で抱えるようにみんなは迎え入れてくれた。

心も身体もボロボロな私に、ふと幸也が言った忘れられない言葉がある。

「みや、俺らはいつでも助けるし、ずっと味方だけど、いつまでもそんな暗い人に、人は寄ってこないよ」

ハッとした。自分は世界で一番不幸な悲劇のヒロインだと思っていたが、残念ながら現実はそんなヒロインに優しくない。泣いてばっかりで、じめっとした人間に、私だって近づきたくない。その言葉がキッカケで、私は立ち直ることになる。

彼が私にくれた言葉は、正直言って厳しい。けれど、厳しい言葉をあえて選んで、正面から愛を持って伝えてくれた。

きっとこれが、友達というものなのかもしれない。そう気がついたとき、心のスイッチに初めて「友達」というモードが追加された。

嬉しいことにも、哀しいことにも、いつだって顔を付き合わせてくれる人。「友達」は、そんな温かくかけがえのない存在につけられた名前だった。

自分を認め、他人を認めることで、初めて大切な存在に気がつけた

自分と違う世界で生きる人に出会えたこと、ダサい自分を受け入れてくれる仲間に出会えたことは、私の人付き合いに対する意識を大きく変えてくれた。

モデルの仕事は見た目の美しさで評価されることが多い。シンプルだけれどシビアな世界で、だからこそやりがいを感じることもある。しかし、ラジオの仕事やプライベートで、モデル以外の世界で生きる人たちと出会い、私は彼らの外見ではない美しさに強く惹かれ、興味を持った。何かに夢中で取り組んだり、自分にはできないことを成し遂げたり、そういった彼らの内面に魅力を感じたのだ。

振り返ってみると、昔は他の人の内面に目を向けていなかった。自分が一番可愛いだとか、あの人は私の気持ちを理解してくれないだとか、言い訳をして、他の人を見下して、相手としっかり向き合ったことはなかった。その行為が、友達という存在を見えなくしていたのではないか。

ダサい私を受け入れてくれたように、完璧でなくても人は認めてくれる。その気づきは、人付き合いのハードルをぐっと下げてくれた。かっこ悪い部分もお互いに認め合って、足りない部分は誰かが補えば良い。そんな関係性を、そんな価値観を、この4年間で作ってこられた気がしている。

モデル一本だった働き方を見直して、モデル以外の武器を探し、ラジオという未知の世界に飛び込む決意をした当時の自分を、あらためて褒めてあげたい。自分を変えたいという思いを、誰もが一度は抱えたことがあるかもしれない。小さな勇気と行動で、日々のまわり方は大きく変わる。そうすると、見えてくるものや出会う人も変わる。怖がらずに第一歩を踏み出せたことを誇りに思うし、自信にもつながっている。

大人になって、やっと友達ができた。それは挫折や葛藤のたびに得られた学びが導いた、出会いだったのかもしれない。傷だらけの代償に、大切な友達の存在に気がつけた。何歳になっても、財産だと言える友達は作れる。行動すること、自分を変えることに遅すぎるということはないのだ。

この記事を書いた人

高山都

高山都(たかやま・みやこ)

1982年生。モデル、女優、ラジオパーソナリティーなど幅広く活動。趣味は料理・マラソン。「#みやれゴハン」として料理やうつわなどを紹介するInstagramが人気。著書に『高山都の美 食 姿「したたかに」「自分らしく」過ごすコツ』『高山都の美 食 姿2「日々のコツコツ」続いてます。』がある。

Instagram:@miyare38

Twitter:@miyare38