「東京」と名のついた本が、書棚のなかにある。

それらはときどき、にぶく発光する。

あくまで比喩にすぎないけれど、光ってみえるとき、それは、私にとっての「東京」の輪郭がぼやけてきた合図だ。

そしてまた、東京の輪郭を失うとは、「自分」の輪郭を失うことと、もはや同義なのだった。

「はやく何者かにならないと」と焦っていた

「最終的にはどんな人になりたいの?」と聞かれて答えられなかった。

24歳だった。雨の日の夜、私たちはタクシーに乗っていて、富ヶ谷の交差点を抜けて松見坂へとつづく坂の途中にいた。

当時私は大学院で文学を学びながら、タレントとしても活動をはじめようとしていた。隣の席には、私を担当することに決まった芸能事務所のマネージャーが座っていた。

「とりあえず肩書きは……。“大学院生・タレント”かな。“元読者モデル”ってのも引きがあるからつけとこうか」

ちょっと皮肉っぽい人だなぁとは思ったけれど、明るく前向きな、これからの話をしていたはずだった。

それまではファッション誌メインの読者モデルとしてやってきたけれど、タレントになれば活動の幅も広がるだろう。いろんな世界を見て、いろんな人と出会うことは、これからの人生をより豊かに彩ってくれるだろう。新しいことがはじまる気配に、胸を高鳴らせていた。

タレントとマネージャー。私たちはうまくやっていけるはずだった。

けれどそのあと彼が続けたのが、くだんの質問だった。

「あ、でもひとつ覚えといてほしいのは。タレントなんて肩書きは総称にすぎなくて、厳しく言うと何者であるかを表す言葉じゃないからね。活躍してる人はみんな、“自分にはこれがある”ってものを持ってる。僕はそこに到達するためのサポートをする役目だと思ってるから聞くけど……。最終的にはどんな人になりたいの?」

“大学院生”は、順当にいけばあと1年足らずで外れる肩書きだ。“読者モデル”は19歳から続けてきたものだったけど、プロではないし、学生の間という期限付きのものだったからこそ気ままにやれていた。仕事と呼ぶには決意が欠けていたし、いまとなっては“元”がつく。

つまり私はまだ何者にもなれていなかった。

ゆるやかにうねりながら上ったり下ったりを繰り返す山手通りには、ずっと先まで車の流れが途絶えずできてなかなか進まずにいた。マネージャーは、ただ前をまっすぐ見つめて沈黙が破られるのを待っていた。気まずくなって窓の外に視線をやると、本線に合流できずにいる車を側道に見た。その車によって側道もまた渋滞を起こしていた。

芸能事務所に所属すれば自然とタレントになれると思っていたのが甘かった。たしかに考えてみたら、“タレント”ってなんだ。めちゃくちゃ恐ろしい響きじゃないか。

最終目標は何なのか。そのために、これから何をしていくべきなのか。

はやく何者かにならなければ。誰からも必要とされなくなってしまう。

でも、「何者かになる」って、どういうこと?

私とはなになのか。その輪郭がぼやけはじめると、いまでもあの雨の日の山手通りに放り出される。

***

又吉直樹著『東京百景』には、18歳で上京してから約10年にわたる東京での生活、その生活に付随した人と風景との思い出が綴られている。

著者は私とおなじ1980年生まれで、おなじ年に上京した。

綴られる多くは、貧しくアルバイトの面接にすら受からず、風呂なしアパートで暮らしながら、芸人という夢を叶えられるかもわからない焦燥の日々だ。たくさんの孤独と傷と寂しさを抱え、自意識と欲望と怒りと嫉妬を持て余し、それでも東京に生きることを諦めなかった証だ。

ページをめくるとそこここに、自分がいるように感じる。けれど本は「そう簡単に共感してくれるな」という強い意志でもって、私を突き放す。

仕事のために大学院を休学。でも、うまくいかない

24歳の私は、さっそく判断をあやまった。

事務所に所属して仕事がはじまると、大学院に休学届けを出したのだ。

大学院では日本文学、とくに太宰治を専門に研究していた。簡単に言えば好きだったからなのだけど、研究で食べていけるには程遠いし確約もない。かといって、趣味感覚で続けていけるような中途半端な世界でもない。

あとは修士論文を書き上げるのみだった。でも、いまは仕事に集中しなければ。「好き」に時間を使うより、仕事で期待に応えなければ。

幸いなことに、仕事は順調すぎるくらいに舞い込んできた。雑誌のレギュラー、コラムやエッセイの連載、クイズ番組のパネラー、情報番組のコメンテーター、ラジオでのフリートーク……。

でも、どうにもうまく立ち振る舞えない。失敗の理由を、仕事からの帰り道で考える日々が続いた。

新橋駅から銀座線に乗り、表参道駅で向かいのホームにやってくる半蔵門線にあと一歩で乗り換えそびれたとき。まっすぐ家に帰るのが嫌で寄った下北沢の喫茶店で、注文と違うものが提供されたとき。ビニル傘とはいえ、最寄りのコンビニの軒先であきらかに自分のが消えていることに気づいたとき……。東京から弾かれているような行き場のなさを感じた。

どんな顔してみんなのなかにいたらいい? 私に何ができるというの?

シャッフル設定にしたiPodから、これみよがしにくるりの『東京』が流れてくる。なんのための東京だったか。自分がどんどんわからなくなっていった。仕事に行くのが嫌になっていった。人と会うのが怖くなっていった。

それでも笑顔を作ることは容易かった。顔の筋肉をどう動かせば笑っているように見えるのか、そんなところだけ、自分の扱いがうまくなっていた。

25歳だった。可能性に期待してもらえるギリギリの年齢だった。

『東京百景』をひらくと、著者もまたもがいていた。

赤坂から三鷹までをオンボロの原付で走りながら、必死で花火の音から逃げていた。夜の歌舞伎町で恥辱に耐えていた。三宿のファミレスでの怒りをネタに変え、世田谷公園で朝を迎えていた。目覚めて最初に見る天井に、夢の続きを、良いイメージを映していた。

そして九十九番目の景色のなかで、著者はこう語る。

〈死にたくなるほど苦しい夜には、これは次に楽しいことがある時までのフリなのだと信じるようにしている。(中略)苦しい人生の方が、たとえ一瞬だとしても、誰よりも重みのある幸福を感受できると信じている。その瞬間が来るのは明日かもしれないし、死ぬ間際かもしれない。〉

〈その瞬間〉が私に訪れたのは、いつだったか。

「なりたかった自分」はどんな自分だった?

転機となったのは、スペースシャワーTVのMCを務めたことだった。

番組は2006年から3年間続き、私は毎週、六本木にあるスタジオに通った。

90分の生放送。そのなかで毎回ゲストが2組出演し、15分間の生インタビューをする。週間ベスト50のチャート番組でもあったから、次の週までに新しくランクインする曲とアーティストについても勉強しなくてはならなかった。

パートナーMCは、音楽評論家の鹿野淳さん。いまでは『MUSICA』や『VIVA LA ROCK』のプロデューサーとして有名だが、当時はロッキング・オン社を辞め、次に何をするのかに注目が集まっていた人だった。

「音楽に真面目な、音楽を真摯に語る番組にしていきたいと思ってます。一緒に、いい番組を作りましょう」

最終顔合わせでプロデューサーにそう言われたときは、背筋が伸びるどころか硬直した。

出演予定者が書かれた紙には、学生の頃から好きで聞いていた国内外のミュージシャンの名前がずらり並んでいた。

「で、番組名なんですが。『チャート★コバーン』に決まりました」

だからそう発表されたときには、思わず耳を疑ってしまった。

「……番組に対する思いにブレはないんですが、タイトルがブレちゃって。でもこれ以上にキャッチーなタイトルが思いつかなかったんです」

音楽に真面目で真摯な番組に、カリスマミュージシャンをもじった名前を付けてしまったそのチームは、なるほど真面目にふざけることのできる頭の柔らかい大人たちだった。

作り手の思いは作品に込められている。それを敢えて言葉として本人に語らせることは、ともすれば無粋なことなのかもしれない。けれどそれが私たちの役目だった。しかも何台ものカメラを回し、やりなおしや編集の許されない生放送という環境のなかで。

制作会議や反省会は、毎回スタッフ全員でおこなった。

「次のゲストはおしゃべりがあまり得意じゃないから、思いっきりバラエティに振り切って素の顔を引き出してみるのはどうか」「新曲のタイトルをもじった料理を振る舞いながらトークするのはどうか」「今作は勝負作だから、木村は席を外して鹿野さんとアーティストのガチ対談を見せようか」

最大限の敬意を払ったうえで、音楽やアーティストに対する知識を深めたうえで、音楽と視聴者とをつなぐためにはなにがベストかを考える。ときには柔軟に大胆に、ユーモアを持って演出方法を変えてみる。だいじょうぶ。作品の価値は揺るがない。音楽は、それほどの強度を持って世のなかに存在しているのだから。

尊敬と信頼。そしてなによりも、音楽が好きだという情熱。彼らからは、本当にたくさんのことを学んだ。

***

そんな日々のなか、自分はどうだったかを考えた。なぜ文学を、「好き」だけにとどめられず、「伝える」ことをはじめたのか。

読者モデルをはじめた頃、カバンの中身の紹介企画に太宰治の文庫本を持参したのがはじまりだった。「実はファッションよりも文学が好き」と漏らした一言を面白がられ、本を紹介する連載を持たせてもらった。ファッションの撮影には、コーディネートに合いそうな本を写り込ませた。企画をもらって、そこにちょっとした仕掛けを紛れ込ませることが楽しかった。

そうだった。ファッションに興味を持って雑誌を手にした読者に、私という存在を伝って文学が届く。それが嬉しかったのだ。届くと嬉しくて、中途半端な知識のまま届けることが無責任に思えて、大学院で学ぶことを決めたのだった。

文学と人とをつなぐ。私はそういう人間になりたかったんだと、はたと気づいた。

次の春、私は復学を決め、27歳になる年に大学院を修了した。

それからは早かった。

2009年は太宰治生誕100年の年でもあり、太宰作品が改めて注目を集めた。“太宰治で修士を持つタレント”ということで出版社から声がかかり、初の書籍を出版した。それは太宰治の入門書で、帯には「太宰治はお笑い芸人だった」という挑戦的な言葉を添えた。だいじょうぶ。愛を持って真摯に向き合えば、作品の価値は揺るがないまま読者に届く。スペシャのチームから学んだことがここに活きた。

太宰という核がひとつできると、タレントとしての仕事も文学にまつわる依頼が増えていった。

「最終的にはどんな人になりたいの?」

マネージャーはもう、その質問をしなくなっていた。

結局、彼とは7年と少し一緒にいて、私は事務所から独立した。

「もう自分で決めていけるよね」

それが彼からの最後の言葉だった。31歳になっていた。

『東京百景』は、著者が32歳のときに書き終えられている。

おなじ時間を東京に生きてきた先で、彼は彼になり、私は私になっていったのだと、読んでいて思う。まだまだぜんぜん途中だけれど、あの日々のなか私たちは、「何者か」になるのではなく、「自分」という輪郭を手に入れていった。

いま、私は下北沢にある「本屋B&B」で、人と本とをつなぐ仕事に就いている。執筆業、イベントプランニング、ときどきはメディアに出ることもあり、「いったい本業は何!?」と聞かれることもままあるけれど、もう、焦ることはない。「何に見えますか?」と、むしろ聞き返してワクワクしている。

それでもときどき、モヤモヤはやってくる。

これでいいのか。この先どんな未来が続いていくのか。

けれどもしまた「東京」の、つまりは「自分」の輪郭を失いかけても、私はもうだいじょうぶだと、思いたい。

〈東京は果てしなく残酷で時折楽しく稀に優しい。ただその気まぐれな優しさが途方も無く深いから嫌いになれない。〉

この本が存在しているというそのことが、私を何度でも、東京という地に立ち上がらせてくれる。

この記事を書いた人

木村綾子

木村綾子(きむら・あやこ)

作家、本屋B&Bスタッフ、「太宰治検定」企画運営。1980年静岡県浜松市出身。10代から読者モデル・タレントとしてメディアで活躍する一方、中央大学大学院では太宰治を研究。現在は文筆業をはじめ、ブックディレクションやイベントプランニングなど本に関する活動を幅広く行っている。

Twitter:@kimura_ayako