今は個人の力が評価される時代

今は、個人の力が評価される時代だ。勤めている会社のネームバリューなどに頼ることをよしとせず、いわゆるインフルエンサーのように個人名義で評価されることが素晴らしいという風潮さえある。

自分自身で肩書きを作り、それに則った活動をして名を上げていく。何者かになっていく。それは自分が思い描く理想に近づく手段としては大いに効果的なことだと思う。私自身も、そこから多大なる恩恵を受けてきたわけだから、なおさらそう感じている。

しかし、個人として評価されることをよしとする風潮が強くなりすぎて、“何者かになること”が手段ではなく目的となってしまっている、という印象を受けなくもない。少し前に、会社を辞めてフリーランスになれ、と煽るような動きがあったけれど、本来であればそれも、フリーランスになることそのものが目的ではないはず。「自分に合った働き方や生活スタイル」を実現するための手段がフリーランスになることだったというのが、正しいあり方ではないだろうか。

個人が評価され、その存在自体が仕事ともいえるのが、インフルエンサーと呼ばれる人たちだ。SNSなどを見ていると、インフルエンサーに憧れ、自分もインフルエンサーになりたいという人もいる。「フォロワーを増やしたい」「知名度が欲しい」「影響力を持ちたい」、さまざまな理由からそう思うのだろう。

有名になることで抱いた思わぬ悩み

無論、私も最初はそうだった。「SNSで有名になりたい」、そう漠然と理想を思い描いていた私は、ありがたいことに体当たりライター「マドカ・ジャスミン」として順調に認知されていった。

自分の性体験についてSNSで発信する。スクール水着で渋谷に出没したり、セックス中の脳波を測ったりといった体験をコンテンツ化する。港区女子やギャラ飲み、パパ活についても発信してきた。そうしたライター活動から派生して、夢だった地上波番組に出演するなど、描いていた理想を次々と現実にしていくことができた。憧れていた人に自分を知ってもらえていた事実に感激したこともある。

しかし、認知度が高まるにつれ、私は思わぬ悩みを抱いてしまう。「私は、一体“何者”なんだろう」と。

自分の好奇心や欲望の赴くままに進んできて、自分で言うのもおこがましいが、ある程度の結果も積み上げてきたと評価してもらうこともある。アンチから心無い言葉を投げかけられた時は少しの後悔を感じたこともあるけれど、総量で言えば、それさえも気にならないくらい満足していた。

だが、時間が経つにつれ、ふと考え込む瞬間も増えていった。「この仕事は本当に“私”がやっているのか、“私”はこれを本当にやりたいのか」「そもそも、私は“何者”になりたかったのか」。

理想とは、自分の中で描いているうちは美しいままだ。でも、いったんそれが叶えば、美しいだけではすまない“現実”に変わってしまう。何の苦しみもないパーフェクトワールドなんてどこにもない。

自分が“何者かになれる”と信じ、憧れた場所に立っても、私は変わらずに私のまま。別の誰かに生まれ変われるわけではなく、私は私のままである。

本当の私はどこにいる?

漠然と“何者か”になれば私を取り巻く世界は強烈に変化するはず、と思っていたけれど、結局はそれまで過ごしてきた日々の延長線上にあるものでしかない。強いて言えば、「マドカ・ジャスミン」の名前が世に出たことで、それに伴う息苦しさを感じるようになったことだ。

“何者かになる”ことを求め、行き着いた先で待っていたのは、息苦しさだったというのは滑稽かもしれない。人と会う時に自分の名前が知られている。自分の業績を知られている。それは望んでいた状況だったはずなのに、私は心のどこかでそれを受け入れられずにいた。

彼らが見ているのは、本当の私ではなく、「マドカ・ジャスミン」というペルソナでしかない。その現実に、「自分じゃない自分」を見られているようで不気味さすら感じた。

同時に、みんなが抱いている「マドカ・ジャスミン」のイメージ通りに振る舞わなければいけない−−−−。そんな強迫観念が生まれ、上手く話すこともできなくなった。人と対面する時だけじゃない。SNSに投稿する時も、「求められているのはマドカ・ジャスミンであり、私ではない」と思うようになっていた。

ちっぽけな私は、“何者か”になるために作り出したペルソナに飲み込まれて、支配されていくようだった。

さらには、毎日の生活の中で感じる喜怒哀楽が誰のものか、そんなことにまで疑問を感じるようになり、感情的になっていく。

今、喜んでいるのは本当の私なの? それとも?

今、悲しんでいるのは本当の私? それとも?

私はそんなことやりたくない。でも……。

自分は自分であるはずなのに、“何者か”になったはずなのに、私は自分が誰なのかわからなくなってしまった。完全に自分を見失ってしまったのだ。

“何者か”になりたい一心で本当の気持ちを殺していた

たとえば、私は20歳から22歳ぐらいまで毎日のように飲み歩いていた。今だから言うが、飲み会の日程を軸にすべてのスケジュールを組んでいたぐらいだ。なぜかというと、飲み歩くという行為が“何者かになる”ために必要だと感じていたからだった。

実際にそういった場での経験はSNSの投稿ネタになっていたし、お酒=私という印象付けは、「港区女子やギャラ飲み事情に詳しい」というブランディングに役立っていたと思う。

けれど、心の奥底にある感情を無視していたのも事実だ。「本当はベッドで眠りたい」「本当は家で過ごしたい」……。だけど、そんな私は「つまらない」。そんな思いから、身体と心と頭を酷使して飲み歩き、SNSでの投稿を続けていた。でも、そんなことを続けていれば、心身のバランスはどんどん崩れていき、心も体も悲鳴を上げ始めていた。今思えば悪循環でしかない。

でも、当時の私にはその自覚が無く、“何者か”になりたい一心だった。だから、何者かを演じることで面白がられるたびに承認欲求は満たされ、人に求められるたびに高揚していた。

でも、同時にこの状態は長く続かないと思っていた。これだけコンテンツが量産され、情報があふれている中、その消費スピードは早くなる一方だ。今日、ランキング入りしたコンテンツは、明日にはもう誰の目にも触れることはない。

たとえ“何者か”になったとしても、すぐに私も消費され、飽きられてしまうのではないか。それは生命線を絶たれるのと同義だ。そのため私は、また別の“何者か”になろうと考え、そして壁にぶつかった。

今まで馬鹿な言動でウケていたタレントが急に政治的発言をする、正統派女優が奇抜な格好をする。こうした転身は、時に異常なまでのバッシングの対象になることがある。それは芸能人に限らず、個人の名前で仕事をし、世の中に認知されている存在であれば、同じ目に遭うことは少なくないだろう。

今まで、奔放な性事情などを綴っていた物書きが、働き方や生きづらさなど、真面目な題材を取り上げるようになるだけで、それまでファンと称していた人たちは違和感や疑問を抱いて離れていってしまう。それだけならまだしも、中には「あいつはもうオワコンだ」などと冷たく言い放つことさえある。

何者になろうと、私は私のままだった

今の私はまさにその状態だ。苦しい。自分が思ったような“何者か”にもなれず、それまで書けていた文章さえも思うように書けなくなる。この1年くらいは、ずっとそのことに苦しんでいた。

でも、その苦しみの中で気づくことも大いにあった。それは、「“何者”にもならなくていいのかもしれない」ということだ。

家庭不和などもあり、順風満帆とは言えなかった小中高時代。高校は卒業直前で中退したために最終学歴は中卒。そんな私は、社会人として尊敬する父親に認められたくて、デカダンス的な人生に身を投じた母親のようになりたくなくて、“何者か”になればすべては好転し、自分は報われると信じていた。

結局、“何者か”になっても、私は私のままだったが、私を取り巻く世界の見え方、とらえ方は大きく変えることができた。私は私であると同時に、誰かにとっての“何者か”であると気づいたからだ。

父親と母親にとっての娘であり、弟や妹にとっての姉であり、友人にとっての友人であり、彼にとってのパートナーであり……、十分すぎるほどの“何者か”という称号を私は持っている。もっと言えば、関わっている人たち全員にとっての“何者か”であって、その逆も然りだ。

そうであるならば、もういたずらに“何者か”になることを目指す必要なんてないんじゃないだろか。

欲しかったものは意外とすぐ近くにあった

改めて考える。私の生きる目的は、“何者か”になりたいことなのか?

いや、違う。私は、もうすでに誰かにとっての“何者か”であると同時に、紛れもなく私は私自身だ。自分が何者なのかを証明するために、知名度も影響力もいらない。自分が自分として、満足いく人生を送るのに必要な最低限のものがあれば十分ではないだろうか。

私が行き着いたこの結論は、個人のブランド化や、個人が大きな影響力を持つことをもてはやすような現代のムーブメントとはかけ離れているのかもしれない。けれど、不特定多数からの称賛を求めて、自分自身を見失うぐらいなら、“何者か”になんてならなくていい。

もし、あなたが今、何者かにならなければと焦り、苦しんでいるのなら、一度考えてみてほしい。なぜそう望んでいるのか。“何者か”になった先に何が待っていると期待しているのか。“何者か”になることは、自分の理想を叶えるための手段であるはずなのに、目的になっていやしないか。何よりも、すでにあなたは誰かにとっての“何者か”なのではないか。

経験者だからこそ言う。自分が今の環境で手にしている価値あるものに気がついていないまま、“何者か”になったところで満たされることはないはずだ。欲しいものは、意外とすぐ近くにあるものだ。

仕事人であり、誰かにとっても友人であり、パートナーであり……。すでに自分がさまざまな“何者か”であることに気づけば、それだけで人生の幸福度は大きく変わるはずだ。友人や家族といった自分にとって大切な人が自分を受け入れてくれている。

そのことに気づけば、不特定多数の誰かにとっての“何者か”になる必要なんてない。私は今そう思っている。

この記事を書いた人

マドカ・ジャスミン

マドカ・ジャスミン

エバンジェリスト。多種多様な人脈や行動力を武器としたライティング、またSTD(性感染症)やHIV防止啓蒙活動も行う。その豊富な経験とユニークな着眼点から人間模様を中心とした執筆内容が支持されている。雑誌や地上波TV番組への出演多数。

ブログ: マドカ・ジャスミン オフィシャルブログ

Twitter: @mdk_jasmine