なぜ尿意を感じていないのにトイレに行けるのだろう?

学生の頃、いわゆる“グループ”というものが苦手だった。

団体行動ができないとか、孤独を愛する一匹狼とか、そういうのではない。

グループの中でいつのまにか勝手に生まれている、見えないヒエラルキー、暗黙の了解、秘密の共有によって守られる関係、というのがどうも肌に合わなかった。

肌に合わなかった、なんて言えば、さも「わたしは忖度なしで自分の思ったことを口に出して他人にどう思われても気にしない堂々とした人間です」とかっこつけているように聞こえてしまうかもしれない。

けれど決してそうではなく、ただわたしは、グループ内で上手く立ち回れなかったし、そもそもそのお約束というものがよくわからなかった。

「トイレに行こうよ」と誘われて、「今別に行きたくないからいいや」と答えた時の、(は?なんで?ノリ悪…)という疑問に満ちた表情。

「彼氏が他の女子とメールしてた! あり得なくない? 浮気だよね?」と同意を求められて「え? 別にしゃべるぐらいいいじゃん、束縛するのよくないよ」と答えた時の、(いや、そういうの求めてないんだけど)という疎ましそうな視線。

思い出すたびに、傍から見れば空気の読めない奴で、人によっては煙たく感じる存在だったのだろうなと、今なら簡単に想像がつく。

なぜ、尿意を感じていないのに、休み時間のたびにトイレに行けるのだろう。

なぜ、まったく違うことを思っているのに、「わかるよ、つらいよね」なんてつっかえずにスラスラ言えるのだろう。

なぜ、自分が何かされたわけでもないのに、無関係の人間を嫌うそぶりを見せられるのだろう。

なぜ、知られたくもないことを「誰にも言わないでね」と枕詞をつけてしゃべれるのだろう。

なぜみんな、習ってもいないのに、波風を立てず、足並みを揃えて、嫌われ者にならないために、周囲の空気に溶け込んでいられるのだろう。

わからないことだらけだった。

学校という狭い世界では楽しく生きられなかった

中学生の頃、友達はゼロではなかったし、ひどいいじめに遭っていたわけでもないのに、ずっとわたしは息苦しかった。

休み時間のたびに誘われるトイレ、「わかるわかる」という魔法の言葉、代わり映えしない毎日の繰り返しのせいで書くことなんてひとつもない交換日記、奇数では許されないグループ、即レス必至のメール、お揃いのシュシュ。

全部、上手くやれなくて、そのたびに嫌いになっていった。

それがその世界では当たり前で、当たり前のことができない自分は、学校という狭い世界では楽しく生きられなかった。

狭い世界にいると、簡単なことで死ねる。

無視されると死ねるし、陰口を叩かれたら死ねるし、メール(今だとLINEだけど)を返さなかったら死ねるし、相手の意見に反論したら死ねるし、変な目立ち方をしたら死ねるし、友達と好きな人が被ったら死ねるし、ブスって言われたら死ねるし、一個の失敗がずっと誰かの記憶に残ってると思うだけで死ねるし、一瞬でも誰かに嫌われたら死ねる。

たったひとつの言葉が、ほんの少しずれた歩調が、ひょこっと出た頭が、ずっとずっと尾を引いて、その世界の自分は勝手に死んでいく。

あの頃のわたしは、何度も死んだ。

わたしの世界、あそこだけじゃなかった

何度も死んで、それでもこれ以上死なないために必死に勉強して、わたしは知り合いがほとんどいない、地元から離れた高校に進学した。

高校に進学して、わたしは戸惑った。

休み時間のチャイムが鳴り、友達が「ちょっとトイレ行ってくる~」と立ち上がり教室をあとにするのを見て、「あれ、それでいいんだ」と。

このたったひとつの出来事で、少しだけ世界が広がったように感じた。

ずっと疑問に思っていた当たり前とされることが当たり前じゃなくなり、当たり前じゃなかったことが当たり前になった、ただそれだけ。

休み時間に自分がトイレに行きたい時に勝手に行くのも、面倒でメールを返さなくても次の日学校で何も言われないのも、あいつムカつくから無視しようよって誘われないのも、容姿をバカにされないのも、音楽を聴きながらお弁当を1人で食べるのも、当たり前のことになった。

なんだ、ぜんぜん大丈夫じゃん。わたしの世界、あそこだけじゃなかったんだ。

世界は、いっぱいある。そして、広い。

大学に馴染めないという話を高校の時の友達にしたら「じゃあウチらと遊べばいいじゃん」と笑い飛ばしてくれたこと、仕事で納得のいかないことがあって上司に食ってかかった時に先輩が「大丈夫、あなたはちゃんと筋を通してる」とかばってくれたこと、夫に仕事を辞めたいと言った時に「じゃあ辞めなよ、そこにずっといる必要はない、君はやりたいことをやった方がいい」と背中を押してくれたこと。

自分がいてもいい場所の存在を知っていくたびに、ますます視界が開け、息苦しさがなくなり、「あ、多分もうわたし死なないな」「万が一死んだとしても、ちゃんと生き返れるな」と心が軽くなった。

嫌な縁は断ち切ってしまえばいい

縁というのは、気づけば勝手に紡がれていて、置かれている環境やその転機ごとに、その他関わりのある人たちが影響して、近づいたり、離れたり、濃くなったり、薄くなったりするもののように思う。

基本的には人の手が介入しない次元にあるものかもしれないけれど、時には自らの手で縁を切ってもいいはずだ。悪い縁ばかりをつないでいたら、良い縁をつなぐ隙間がなくなってしまう。

自分の心を守るために、力いっぱいぶった切って進んだ先に、広がる世界がある。上っ面だけの付き合い、当たり障りのない会話、嫌われないために、嫌われて死なないために、そればかりを武器にして他人と対峙していたら、誰とも愛し合えない。

何度も死んでは生き返って、そのことを心に馴染ませていった。

「世界はここしかない」と思ってしまいがちだけれど

死なないように生きるのが上手な人たちって、きっとたくさんいる。

LINEをマメに返して、アイドルグループの推しを友達と被らないようにして、愚痴を黙って聞いてあげて、たまに一緒になって泣いて、嫌なことを言われても受け流して、面倒な役目を押し付けられても文句を言わず、変に目立つこともせず、足並みを揃えた、上手な過ごし方。

わたしには到底できなかったけれど、できる人たちにとって、これはきっと処世術のひとつなのだと思う。

それが、楽しいならいい。居心地がいいなら何も言うことはない。でも楽しくないのに、居心地が悪いのに、どうしてもやらなくちゃいけないことなのだろうか。

たとえ死なないためだとしても、そんなのよっぽど心が死んでしまうのではないだろうか。

学生の時だって、つらかったらやめたっていい。転校したっていい。別の学校に入り直したっていい。

それが許されるだなんて、微塵も思わなかった。だって自分がいる世界しか知らないわけで、それが世界のすべてになってしまっているのだから。

ほんとうは、絶対にそんなことないはずなのに。

大人になるにつれて、多くの人がそのことに少しずつ気づいていく中で、「世界はここしかない」というしがらみに囚われてもいる。

でもね、マジで死なないんだよ。

自分を格下認定してマウントばかりを取ってくる人間のLINEをブロックしたって死なない。

しんどさを感じるほど全体重で寄りかかってくる人間を思い切り突き放したって死なない。

心が疲れる人間の言葉が聞こえないところまで距離をおいたって死なない。

仕事で筋の通っていない屁理屈に真っ向から抗ったって死なない。

仕事を辞めたって死なない。

心無い言葉をぶつけてくる人間、陥れるようなことをしてくる人間、自分の人格を否定する人間、そんな人間に嫌われたって死んだりしないんだよ。

自分の世界の平和を願って、自分の世界から尊厳や誇りを侵害する人間や愛してもいないどうでもいい人間をいないことにしたって、世界の動きはなにも変わらない。

きっと、自分の知らない世界で勝手に楽しく生きているのだから。

自分が楽しく生きられる世界を選ぼう

成人式の日、中学校の同窓会があった。成人式自体にも行くつもりはなかったが、なんとなく、当日の朝に思い立って参加することにした。

煌びやかに着飾った、かつての同級生たち。その中にはわたしのことを疎ましく思っていた人も、いないものとして扱っていた人も、「ブスのくせに目立ってんじゃねぇよ」と言っていた人もいた。会場にいる懐かしい顔を眺め、「あぁ、もう、平気だ」と感じた。

わたしは、死んでいない。

ここは、わたしがいたい世界じゃない、いなくちゃいけない世界じゃない。

成人式の会場を離れ、誰とも会話をすることもなく、同窓会には行かずにわたしは帰った。

きっと、彼らは同窓会を楽しんでいるだろう。昔話に花を咲かせ、「懐かしいね」「あの時こんなことあったよね」と盛り上がりながらも、わたしの名前なんて出ることはない。

でも、それでいい。

彼らが楽しく過ごしている間、わたしは別の世界で愛する友人たちととびきり楽しく過ごしているのだ。

なんとなく合わないと思っていた友達から、数合わせで呼ばれた結婚式も断ったけれど、わたしは死んでいない。わたしの世界には夫との幸せな結婚生活が存在して、きっと彼女も別の世界で幸せな結婚生活を送っているはずだ。

仕事だって辞めたけれど、なんだかんだ小金を稼ぎながらなんとか生活はできている。

わたしをかばってくれた上司とは、仕事を辞めてからもずっと仲の良い関係は続いている。

あの会社だって、わたしが辞めたあとも潰れたりしていない。

誰かに嫌われても、誰かと縁が切れても、死んだりなんかしない。お互いが関わりのない別の世界でそれぞれの愛する人たちに囲まれながら楽しく過ごすことができればと願う。

そっちのほうが、みんな生きられる。

この記事を書いた人

ものすごい愛

ものすごい愛(ものすごいあい)

心身ともに健康な元社畜の主婦。悩みゼロ・不安ゼロ・悲しみゼロマインドで毎日明るく楽しく生きており、周囲からは「ポジティブゴリラ」と揶揄されている。2019年4月には初の著書『ものすごい愛のものすごい愛し方ものすごい愛され方』を発売。12月24日には『命に過ぎたる愛なし 〜女の子のための恋愛相談』を発売予定。AMにて『命に過ぎたる愛なし』、マイナビにて『大学一年生の転び方』、大和書房にて『今日もふたり、スキップで』を連載中。その他、DRESSやyom yom(新潮社)にエッセイを寄稿。

Twitter:@mnsgi_ai