大人の課題図書
Dybe!世代におすすめの一冊を、複数の書き手が読み、それぞれの解釈でインスパイアされたことを書き綴る「大人の課題図書」。
今月は『漫画 君たちはどう生きるか』。主人公のコペルくんはおじさんとのやりとりを介し、人生の教訓や人間としてどうあるべきかなどを学んでいきます。
今回はライターのひらりささん、内科医のFujiponさん、ライターの大木亜希子さんに読んでいただきました。
この本の、世の中の「格差」や「いじめ」に戸惑いつつも、「立派に生きよう」として壁にぶつかっている15歳の中学生・コペル君と、コペル君の亡くなったお父さんの弟である知識人の「おじさん」とのやりとりを読んでいて、僕はちょっと「ずるいな」って思ったんですよ。
「おじさん」って、子どもに対して「いいとこどり」できるじゃないですか。
いざという時に、最終的な「責任」はとらなくてもいいし。
「おじさん」は、ほんと、気楽な立場でいいよねえ。
だいたいさ、コペル君に「先輩」として、いろいろアドバイスしているけれど、おじさん自身は、いい大人なのに、今は仕事もせずにフラフラしている「高等遊民」じゃないか。
実は立派じゃなかった大人たち
ところが、この本を読み進めていくうちに、コペル君の周りの大人たちは、どんどん「立派じゃなくなっていく」のです。
本気で生きている子どもたちには、大人の「きれいごと」は見透かされてしまう。
何かを伝えようとすれば、自分の情けないところも、さらけ出すしかない。
僕の話になりますが、亡くなった自分の父親について一番記憶に残っているのは、母親の癌が見つかった際に、二人で寿司屋で食事をした時のことでした。
「なんで、もっと普段から気をつけてあげなかったんだろうな……」
子どもに愚痴をこぼすことがほとんどなく、ずっと心の距離を感じていた父親が声を詰まらせ、「最近、歯が弱ってしまって、苦手なんだ」と、ナマコの小鉢を僕にくれたのが忘れられません。
僕もナマコ、苦手なんだけどな……と思いつつ、黙ってそれを食べるしかなかった。
コペル君のお母さんは、友達を助けられなかったコペル君に、「ずっと自分が後悔していて、忘れられないこと」を話します。
それを読んで、僕自身にも、そういう「人を助けるための、ちょっとした勇気が持てなかったこと」がたくさんあるのを思い出しました。
不思議なものですよね、「できなかったこと」ばかりが記憶に残る。
席を譲ってあげたり、困っている人に「大丈夫ですか」と声をかけることができていれば、そんな小さな親切のことは、すぐに忘れてしまっていたはずなのに。
そういう「後悔」を子どもに伝えるのも、いや、それこそが、大人の役割なのかもしれません。
おじさんはコペル君と過ごして変わっていく
メッセージを込めた一冊のノートをコペル君に渡して、「立派な人」になってくれるように導いていた「おじさん」は、出版社に勤めていて、ずっと、「自分が子どもたちに言いたいことを、かわりに言ってくれる著者」がいないことを嘆いていました。
けれども、コペル君と対話をし、発見や悩みや戸惑いを共有することによって、自分に足りなかったものに気がついたのです。
それは、「自分にできることを、失敗を恐れずに自分でやってみる」という、ただ、それだけのことでした。
おじさんは、「いつか出会えるかもしれない誰か」を待つのではなく、自分自身の言葉で「子どもたちに伝えたいこと」を書いてみることを決意します。
書かない言葉は、批判されないし、バカにもされない。
でも、誰かに伝わることもない。
おじさんが「高等遊民」だったのは、自分で何かをやってみることで、「やっぱりできなかった」ことがわかったり、誰かに否定されるのが怖かったのではないだろうか。
「やらなくては」って思いつつ、とりあえず明日からにしよう、と先送りにしているうちに、時間ばかりが過ぎていく。「想像を絶するだらしなさ、ルーズさ」を、日々発揮しているのは、某お笑い芸人と僕だけではないはずです。
コペル君のことを頼まれなかったら、おじさんはたぶん、ずっと「高等遊民」のままだった。
コペル君のお父さんは、おじさんのことも心配していたような気がするのです。
「正しいこと」をする難しさ
この『君たちはどう生きるか』は、大人になった僕が読んでみると、決して、希望に満ちた甘ったるい本ではありません。
「子どもの発想力ってすごいよね。みんな正しく生きよう!」みたいな話ではなくて、人間の心の弱さや、「力なき正義の無力」も描かれている。
──君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。
世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。
人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。
君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。
思いあたることばっかりですよ、本当に。
それでも、人は、命がけで「正しいこと」をするべきなのか?
正直、僕は40代後半になってもわからないのです。
あおり運転をやっている人に注意をしたり、地下鉄の駅で、ホームから落ちた人を電車が迫っているのに助けようとしたりするのは、「正しい」ことだと思う。
でも、それで自分を危険にさらすのは、美しいけれど、もったいなくはないのか。
考えれば考えるほど、かえって、身動きがとれなくなってしまう。
そして、疲れ果て、考えることさえやめてしまう。
そういう人生って、はたから見れば「結局、何もしなかった人」でしかない。
わからなくても、やってみるしかない時もある。
その時はうまくいかなくても、得られた反応や経験は、きっと次につながります。
大人だって、成長できる
『君たちはどう生きるか』って、「子どもに読ませたい本」だと思われがちなのです。
僕も自分で読むまでは、そう思い込んでいました。
でもね、人生なんてこんなものだ、あとは「終活」だ、とか思い込んでいる大人こそ、この本を読むべきなのだと思うのです。
子どもの頃、「子どもには大人の世界はわからない」なん知ったかぶりをしている大人が、僕は大嫌いだった。
でも、いつのまにか、そんな大人に、なってしまっていた。
大人だって、成長できる。自分で、成長しようとしていないだけで。
あるいは、自分の成長に気づいていないだけで。
誰かにものを教える、あるいは、悩みに寄り添うということによって、自分自身の足りないところに気づく、できなかったことが、できるようになる、ということは少なくないのです。
僕自身、自分の子どもだけではなく、大人として他人の子どもに接したり、後輩を指導する機会が少なからずあります。
そのたびに、自分の実力のなさや、「知っている」と思っていたことが、時代遅れの知識だったことを思い知らされるのです。
僕は、子どもたちと行動するようになって、「恥ずかしくてできなかったはずのこと」が、たくさんできるようになりました。
これまでは、デパートで欲しいものがどこにあるかを店員さんに聞く、とか、電話をかけて必要事項を確認する、ということさえ、なかなか踏ん切りがつかなくて、デパートの売り場を延々とウロウロしていたのに。
子どもたちの疑問に答えるために、調べものをすることもよくあります。
「テレビはなぜ映るのか?」と尋ねられて、すぐに答えられる人は、そんなにいないはずです。
人間には、「他人のため」だからこそ出せる力って、あるのだと思う。
それは、勇気とかそういう綺麗なものではなくて、「面倒だったり、恥ずかしかったりするけれど、これは自分がやらなくてはならないことなのだ」という覚悟、なんですよね。
僕は、子どもの前で「頼りになるお父さん」を演じながら、心の中で、自分に感心しているのです。やればできるじゃん、って。
「おじさん」は、コペル君を導いているつもりで、いつのまにか「自分も成長していた」のです。あるいは、自分よりも小さい、守るべき存在を見つけて、ようやく「大人」になれた。
小さな進歩であっても、僕は子どもたちや後輩が、「できなかったことを、できるようになる」のを見るのが大好きです。
そして、僕自身も、こんな年になっても、新しくできるようになることってあるんだな、と驚いています。
ほんの些細なことでも、自分の成長を感じられると、人生は楽しくなる。
「立派な大人」を脱ぎ捨てて、自分の弱さをコペル君にさらした時のおじさんやお母さんは、僕にはとてもカッコよくみえました。
「歴史的名著」なんて言われると、敬遠したくなるのですが、この漫画版なら、1~2時間で読めますし、内容は難しくありません(「答えのわからない問い」を与えられるという意味では、大変「難しい」とも言えますが)。
たまには、自分の子どもの頃のイヤだったことを思い出したり、お説教されてみたりするのも良いものですよ。
この本を読むと、そう思えてくるのです。
この記事を書いた人
40代半ばの「なんか生きづらいなあ、と思いながら、ブログをずっと書いていたら、人生の折り返し点をいつのまにか過ぎてしまっていた」男です。九州の地方都市在住で、内科医として働いています。1年くらい前に大きな病院での当直や救急から卒業し、平穏な日々を過ごせるようになりました。
座右の銘は「人生経験が豊かな人というのは、基本的に嘘である」。趣味というか主食は本とゲーム。カープとレトロゲームと競馬とともに生きてきました。大好きな作家は、筒井康隆、村上春樹、中島らも。
ブログ:琥珀色の戯言(読書・映画感想)
いつか電池がきれるまで(世の中やネットの話)
Twitter:@fujipon2
