つい休めず、自分の「楽しみたい」想いを後まわしにしていないだろうか。クセになってしまうと、知らないうちに、少しずつ、自分を見失っていくことがある。自分が自分でないと、遊んでも、働いても、すべては虚しい。ブレが小さいうちにコツコツと好きなことをやって、自分を取り戻す「休む習慣」を身につけよう。

私が私でないと、すべては虚しい

私には、休みをないがしろにして大失敗した経験がある。

震災の年、親の老いや、命について深く考え、自分のこれからの人生を仕事に捧げる決心をした。そのことは間違ってなかった。ストイックに仕事に精進すると、レベルアップして、周りに喜んでもらえて、自信もついた。

欲が出て私は、もっともっとと、自分を追い込んでいった。

いつのまにか休みも返上して働いていた。毎年、連休に私が帰るのを楽しみにしていた母が、「今年は帰ってこないの?」と寂しそうに電話をかけてきた。母の声に、郷愁や、帰ってあげられない罪悪感がこみあげそうになったが、「私には仕事があるんだ!」と打ち消して、ますます仕事にのめり込んだ。

ひどい時は、まる9日間、短い睡眠の他はろくに飲まず食わずで、ぶっ通しで仕事をした。さすがに10日目、外へ出て太陽の下を歩いた時は、喜ぶ気力もなく、ふらふらした。「この仕事が終わったら、あれしよう、これしたい」と思って、我慢して抑えつけていたことも、いざ終わったら、忘れていた。

「何しよう?」、で浮かんでくるのは、「洗濯」だった。

3年くらいはそれでも頑張れた。

でもその頃から、ぬるく仕事をやっている人を見ると、「私がこんなに頑張っているのにぃー!」と、腹が立つようになった。出張の駅などで、ふと、楽しそうに旅行をしているカップルや家族づれを見ると、「何とも言えない気持ち」に襲われて、目をそむけてしまう。

仕事はうまくいって人に歓んでもらえていた。たとえて言えば、光を浴びて枝や葉は伸びている。なのに、幹がどうしようもなく渇いていく。

「虚しい。」

「何とも言えない気持ち」の正体は、虚しさだった。

自己表現と自立と幸せと

人には自己を表現したいという本能がある。バイクが好きな人はバイクに乗ることでイキイキ自己を表現できる。おしゃれをしたい人は服装や髪形で自分を解放する。人それぞれ、想い想いに、自分が自分らしくあるためにやる行為、それが「自己表現」だ。

それは「仕事」を通して社会に貢献し、経済的にも「自立」することとは、また別物だ。なかには、プロサッカー選手のように、「自己を表現する手段=自立の手段=サッカー」の人もいるけど、多くの人は、「仕事と趣味」のように別々にやっていく。

さらに、「愛」がないと生きられない人間は、どんなにささやかでも愛し愛される人間関係を持てると、「幸せ」を感じる。

「自己表現」と「自立」と「幸せ」、どれが欠けても物足りず、どれかでどれかは補えない。仕事でどんなに成功しても、愛する家族があっても、

「自己が表現できない時、人は虚しい。」

表現教育に携わる私はわかってるつもりだった。自分は、仕事で自己表現もできると思ってきたし、それは嘘ではない。でも、「こんな音楽を聴きたい」とか、「家族と旅行に行きたい」とか、仕事の枠からこぼれてしまう、ささやかな「想い」がある。

「私は本来、休日に、何やりたかったんだっけ?」

心に水をやらなければ、カスカスに渇いてしまう、と思いながらも、自分を潤すやりたいことは浮かばなかった。休日の虚しさは募っていった。2年くらいは孤独を飲み込むように生きていた。

そんな時、ふとつけたテレビで、「日本アカデミー賞」をやっていた。

衝撃が走った。

「見てない……。」

私とした1つの約束

ノミネートされた映画、どれ1つとして見ていない。そんなはずは……、これでもわりと映画は好きだったじゃないか、と動揺が隠せない。

「どうした?! らしくないぞ! 私。」

やむにやまれず私は、私と「1つの約束」をした。週1回、休日に映画館に行って映画を見ることだ。

最初は見たい映画が見つからない。あまりに疎くなってしまって、映画情報を漁っても、ピンとくるものがない。それに毎週となると、思っていたより根気がいる。「今週はサボってしまおう」と魔がさすたび、

「自分との約束は平気で破るよね。もしこれが他人との約束だったら? 小さな子どもと約束して、楽しみにされてたとしたら、こんなに平気で破れる?」

と自分を叱った。自分との約束を破れば、自分に信頼されなくなる。まるで小さな子どもとゆびきりしたように、私は、私とした小さな約束を守り続けた。

毎週見ているうち、予告編で気になる映画、気になる監督や俳優が次々と出てきた。自分の中にアンテナが出てくると、映画情報も入ってくるようになった。何より習慣づいてくると、苦じゃなくできるようになる。でも時折、

「こんなこと続けてて、意味があるのか?」

結局は消費じゃないか、と虚しさがよぎった。ひとりで映画を見て、誰とも話さずひとりで帰る。寂しい。

なにやってんの、私!

それでも続けたある日、映画の帰り、階段を降りてて、ふと、昔の記憶がよみがえってきた。それは20代の後半、まだ地元の岡山に勤務していた頃、友達と映画を見た帰り、深く、深く、夜中までとことん語り合った。手で触れるほどありありと、その時の空気や、カラダの感覚までリアルによみがえった。

「ああ、いい時間だったなあ! 楽しかったなあ!」

当時、単館系の映画は地方でなかなか見ることができなかった。それだけに、情報を集め、時には新幹線で大都市まで見に行き、苦労していい映画を見ていると、おしゃれな人が集まってきた。

素でおしゃべりするより、映画を介しての方が、相手の感性や思考、深い内面が見える。

映画で同じ世界を体験し、そこに込められた想いを共有するからだろう、互いの感性を見せ合えるし、お互いを深く掘り下げられる。親しくなるのに時間はかからなかった。ずいぶん年下の友達もできた。感想が食い違う時は、まるでタメのようにケンカもできた。

「ああ! 私はそんなふうに、作品を介して、人と深く通じ合うのが好きだったなあ!」

はっ! これが私。

田舎に生まれ育った私は、ずっと映画や演劇、芸術を鑑賞して自分を磨くことに強いあこがれがあった。でもそれ以上に、

作品を介して、人と通じ合うことが大好きだった。

私は人が大好きだった。

「逃げていた……。」

と気がついた。友人たちが、結婚や出産、育児、介護、故郷にUターンなどで、相次いで遊べなくなっていった時期があった。それでも1人だけ、毎週のように映画や演劇、美術館に付き合ってくれた友人がいた。「この人がいなくなったらどうしよう」と思っていたその人と、なんと、大ゲンカして絶交してしまった。ショックは大きかった。

いまから思えば、次に友達をつくるなりすれば済むことだった。でも、「嫌われた」という想いが傷になり、また傷つくことが恐くて、それを自覚しないように、仕事にかまけて、自分の殻に閉じこもってしまった。

「なにやってんの! 私!!!」

転勤で初めて東京で暮らすと決まった時、東京に出たら、映画や演劇や芸術に好きなだけ触れて、たくさんの素敵な人たちと通じ合い、友達になるんだと、夢がふくらんだ。なのに、せっかくいま東京にいるというのに、何やってんだ! 私。

水に打たれたように目が覚めた。その瞬間、自分と自分がガチャッと音を立ててつながった。

「自分を取り戻した。」

休日に映画を課して、8ヵ月たっていた。

休む習慣で、自分を取り戻す

翌年の日本アカデミー賞は、最優秀の、主演女優・助演女優・助演男優、脚本賞などあてることができた。「この映画、この人と見たい!」、と直感的に友達の顔が浮かぶようになった。良い作品には人を引き付けるチカラがある。ダメもとで誘うと、友人たちは、介護や育児の都合をつけて、来てくれるようになった。見た後のおしゃべりで、水を得たように、イキイキと満たされる自分がいる。

芸術文化で自分を磨くことは、私にとって、休日の自己表現でもあり、その後のおしゃべりで人と通じ合い愛し愛される人間関係を結ぶ幸せへの近道でもある。

その大事なことを、休みを疎かにすることで見失っていた。

疎遠になった友達と、よりを戻すにはコツコツ時間がかかるように、疎遠になった自分と、よりを戻すにも、コツコツ時間がかかる。

そうならないように、自分の想いを表現できるのは、いま、だ。

「過去」でもなければ、「こんど」でもない、「暇ができたら」でもない。

あなたが社会に出る時、「自分で稼ぐようになったら、こうしたい」と私生活にこめた夢や期待はなんだったろうか。

その想いはいま、表現されているだろうか。

もしも、自分とたった1つ約束ができるとしたら、ささやかでも毎週、休日に、必ず自分が守ってくれるとしたら、あなたは自分自身とどんな約束をしたいだろうか。

自分になるための「休む習慣づくり」、新年度にそなえて、いま、

始めるのもいいと私は思う。

この記事を書いた人

山田ズーニー

山田ズーニー(やまだ・ずーにー)

文章表現インストラクター。ベネッセコーポレーション進研ゼミ小論文編集長を経て、2000年独立。慶應義塾大学をはじめ多数の企業・大学で、文章表現教育を展開、「苦手な人も4時間で見違えるほど実感ある文章を書く」「自分の想いが表現できる」と感動を呼んでいる。著書『伝わる・揺さぶる!文章を書く』は、読者をこう励まし続ける。「あなたには書く力がある。」

Twitter:@zoonieyamada