こんにちは。僕はフミコフミオ。食品会社で営業部長として働きながら、ブログを書いている、今年で44才になる中年サラリーマンだ。10年以上の長きにわたってインターネットの片隅で汚文・駄文を垂れ流してきたので、もしかしたら、名前くらいは目にした方もおられるかもしれない。

この文章は、「働く若者へエールを」というオファーを受けて書かれたものであるが、「こうすれば解決できる」というような即効性のある技術については一切書かれていない。

もしかしたらオファー主は「具体的なメソッド」を望んでいたのかもしれないが、そんな都合のいいものはない。なぜか。それはそれぞれが自分なりに自分にあった技術を見つけていくしかないからである。なので、ここにあるのは、少々人生の先輩であるだけの僕が、仕事上の困難を乗り越える際に習得した《ちょっとした気構えのコツ未満》にすぎない。

若者の責任感に訴えて利用しようとする人がいる

働き始めてある一定の期間が経過したとき、上司や先輩から呼び出されて「こんなこともできないのか」「もう少し何とかならないのか」と叱られた経験はないだろうか。でも、「こんなこともできないのか」的な文句は、叱り方として間違っている。彼らから見れば「こんなこと」と言える簡単な仕事かもしれないが、経験のない新人の立場から見れば簡単な仕事などではないからだ。だから「そんな言い方はないだろう」と憤ってもいいと思うのだが、「俺はダメだ」と落ち込んで自分を責めてしまう人は多い。

それはなぜか。「先輩や上司は、自分のために言ってくれている」という思い込みがあるからだ。

もちろん、「後輩たちを育てたい」という気概のある人もいるが、そういう言い方をする人間のほとんどが「優位ポジ」に立つためにそうした文句を使っているとみていい。

優位ポジとは「優位なポジション」のことで、理由や根拠もなく(乏しく)相手にマウンティングできる位置に立ち、力関係で上位に立つことである。

考えてみてほしい。新人がいきなりベテランと同じ仕事ができてしまったら、どうだろうかと。給与も年齢も高いそのベテランの存在意義はなくなってしまうではないか。それに、そもそも若いうちには経験も能力も不足しているのだから、できないことがあるのは当たり前ではないか。

しかし実際には、経験不足ゆえに多くの若手は、先輩や上司は自分のために注意してくれている、できない自分が悪いのだと思い込んでしまう。

このように、「若者の責任感に訴えて自責の念を抱かせて働かせる=コントロール下に置こうとする」やり方は、よく使われている手法で、その究極形が「社畜」と揶揄されているものだ。どんな無理難題を押し付けられても「できないのは自分が悪い」と思い込み、会社のいいなりになってしまうのだ。

実際、僕も肉体的にも精神的にもかなりキツイ職場で働いている時代は「自分の能力がないから仕事が終わらないのだ」と考えていた。今だから言えるが、精神的に支配されていた。責任感の強い、真面目な若者であればあるほど自責の念も大きく、強いものになる可能性を秘めているので社畜になる素養がそれだけ大きいといっていい。

真面目な若者たちを追い込んでいくものは、己の責任感だけではない。プライドや自尊心によって苦しめられるケースも多々ある。

上司や先輩に仕事ぶりを注意されたときに「こんなはずではない」という悔しさを覚えたなら、それは己のプライドから生じた悔しさでもある。自分の思い描いた仕事ぶりと実際、理想と現実のギャップに悩んでしまうのは、プライドを持って仕事をしている証拠なのだ。

先輩や上司から「こんなこともできないのか」と叱られて、落ち込んだり悔しさを覚えたりしたなら、「自分はダメ人間だ」と落ち込むのではなく、「自分は責任感とプライドを持った意欲ある人間なのだ」と安心してほしい。ポジティブにとらえてほしい。

上司や先輩が口にする「こんなこともできないのか」の正体

経験のない若者を育て、一人前の戦力にするのが上司や先輩の仕事の一部だ。言ってみれば新人や若手が、満足な仕事ができない状態にあるのであれば、それは上司の育成力不足である。

それを棚に上げ、部下や後輩を「こんなこともできないのか」と叱責するのは、自らが「仕事をしてない」と告白しているようなものだ。自らの力不足を部下や後輩の責任にすり替えようとしているだけだ。その程度の人物のためにくよくよ悩む必要はない

僕は駆け出しの営業マンの頃、毎日のように先輩からお叱りを受けていた。「ノルマを達成できない営業は存在価値がない」「数字だけを追え。未達の分際で休憩するのか」と、今だったらハラスメントといわれるような言動のオンパレードだった。

悔しかった僕は、技術や経験もなかったので体力任せで猛烈に頑張ってノルマを大幅にクリアした。すると、先輩は「ノルマを達成することだけが新人の仕事じゃない」と謎の理屈を持ち出して説教をした。「出る杭は打たれる」という諺をリアルで思い知らされた。

僕はその時、「この種の人間は、人を育てようという気持ちからではなく、自分が優位ポジに立つために偉そうなことを言っているのだ」と知った。

責任感やプライドは何物にも替え難い尊いものである。「貴重な責任感やプライドを、このようなくだらない人間のために消耗させるのはやめよう」と思ったのはその時が初めてである。それでも数年後、社畜になってしまったのは不徳の致すところというほかない。

その時は、責任感とプライドを違う形で利用されてしまった。昇進・昇給によって責任感は増大し、「社内最年少の部長級」という肩書でプライドを刺激された僕は、ニンジンをぶら下げられた馬のように会社のなすがままになってしまったのである。

「失敗から這い上がる美学」なんていらない

話を戻そう。おそらく、上司や先輩もその上の世代から「こんなこともできないのか」と叱られてきている。新人や若手が失敗を重ねるのはどの時代でも一緒。だが失敗を活かし、二度と繰り返さないようにするために工夫を凝らしてきたのが人類の歴史であるはずだ。ノウハウの蓄積といわれるものだ。

ところが会社という組織ではどうだろうか。僕は20年ほどサラリーマンをやっているけれど、そのノウハウが活かされているかは、かなり疑わしいと思っている。一部の酷い上司や先輩になると、己が犯したものと同じ失敗を、後輩にわざと味あわせているような輩も見受けられるくらいだ。

どうやら、この国には新人や若者にあえて失敗させることを是とする文化があるらしい。

失敗から這い上がる美学とでもいうのだろうか。セミナーや講演で語られる人生訓の多くに、失敗と挫折とそこから這い上がる物語が含まれているのは、単にそれが美しい物語として求められているからだ。「ダメな自分を見つめ直して成功をつかみました」という物語はわかりやすいし、優位ポジを作り上げるために新人や若手を叱る構図と合致している。

人間単位では同じ失敗を繰り返すなと叱りつつ、組織としてはずっと同じような失敗を繰り返している。なんていう矛盾とバカバカしさなのだろう。そういう残念なことを組織的にやっている会社も世の中にはあるのだ。

一方で、僕は会社には失望しているが、絶望はしていない。むしろ、会社や年功序列や終身雇用という既存の枠組みに乗っかって定年まで突き進みたいと考えているくらいだ。楽だからである。

だが、自分より若い世代にそういう考え方を押しつけようとは思わない。もっとひとつの会社や働き方に縛られずに自由に楽しく働いてほしい。僕もそうやって生きてみたいけれど、残念ながら、その気力も体力も残っていない。

会社に支配されている自分に気づき、40代半ばで会社を辞めて無職になったとき、永遠に再就職できないのではないか、という恐怖を感じた。その恐怖が僕にチャレンジをさせないのだ。

僕が働く若者に伝えたいこと

経験不足や知識不足で仕事がうまくいかなかったとき、相手から求められている仕事ができなかったとき、いうまでもなく反省と学習は必要だ。

そして会社というのは程度の差こそあれ、往々にして優位ポジにある上司や先輩にとって気持ちのいい組織であるので、新人や若手が失敗をしたときに「こんなこともできないのか」と叱られる光景が無くなることは残念ながらない。

それほど人間は賢くないし、己の経験から逃げられない人が多いからだ。

僕が言いたいのは、上司や先輩の言葉に、落ち込んでも働くことから逃げてほしくはないということ。働くことは必ずしも楽しいものではない。僕も楽しいと思うことはほとんどない。だが、働くことでしか得られないものは確実にある

もちろん、叱られているなかで上司や先輩がブラックだと感じたら、速やかに逃げてほしい。本当にブラックかどうか確かめる必要はない。「ブラックかも?」という疑念がすでにシグナルなのだ。

とにかく、まずは自分を守ってほしい。僕はひどい環境で働いているときも、心身の不調を感じたときは周りから何を言われようが構わず、自分のために休んだ。上司の声をスルーするスキルだけは身につけられたのだ。

そして、相変わらず今も営業という仕事を続けている。それはどんな状況にあっても、自分なりの理想の仕事の進め方や職場環境を考えていて、転職の機会があったら活かしてみたいと企み続けていたことが、役に立っている。

反省は必要、でも自分を責める必要はない

最後にもう一度。もし、今、うまくいかない時期を過ごしていたとしても、反省はしても自分を責めないようにしてもらいたい。すこしでも、「仕事ができない…」と思い悩む責任感があるなら、何も心配はいらない。絶対に、そのうちにうまくいくからだ。僕がそうだ。

ほとんどの人間は凡人で、ノーベル賞を取るようなスーパーマンではない。でも、どんな仕事も、時間さえかければ誰だって、一定のレベルには到達できるようになっている。

わからないことがわからない状態から、わからないことがわかるようになり、できるようになる。そのステップを登っていくために特別な才能は要しない。通勤電車に乗っている仕事人間たちは皆、そうやって時間をかけて仕事ができるようになってきた凡人たちなのだから。

そして、悩んだ時には自分ひとりで抱えこまないようにしてほしいのだ。極論をいえば、新人や若者ひとりの失敗で、会社がおかしくなるような事態などありえない。そこで責任感とともに「自分の失敗なんて小さなことに過ぎない」と客観的にとらえる目を持ってもらいたい。

強すぎる自責の念は自身を苦しくするだけでなく、それを利用しようとする人や組織につけいる隙を与えることになる。その先に待っているのは会社に縛られる社畜である。必要なのはある程度の開き直りと客観視。責任感は自分だけの宝物みたいなもので、他人に利用させてはならない。

社畜にならないためには、「自分の責任感を他人に悪用されていないか常に注意を払っておくこと」、「自分の犯した失敗を客観的に見ること」、が何よりも大事なのである。

僕が責任感のある若者に助言できるのはこれくらいしかない。(所要時間72分)

この記事を書いた人

フミコフミオ

フミコフミオ

海辺の町で働く不惑の会社員。普通の人の働き方や飲食業や給食について日々考えている。現在の立場は営業部長。90年代末からWeb日記で恥を綴り続けて20年弱、主戦場は、はてなブログ。

ブログ:Everything you've ever Dreamed

Twitter:@Delete_All