「残業は必要悪などではない。ただの悪だ」僕はそう考えている。

僕が前に勤めていた会社には残業が存在しなかった。「残業は存在しない。ゆえに残業代というものも存在しない」が人事の公式見解。そのおかげでどれだけ心身にダメージを負っただろうか。現在僕を悩ませている体の痛みと不眠はあの時期のダメージが原因だ。

社長のツルの一声で海の家の店長代理に就任した時など、摂氏50度を超える真夏の鉄板の前でひたすら焼きそばを作り続けた(その時の記事はこちら)。交替要員がいないうえ、学生アルバイトが定着しなかったので、月150時間は残業していたはず。

だが、会社内ではそれも存在しないことになっている。なぜなら会社としては残業をしないよう指示を出しているので、残業は命令違反であり、命令違反に対してお金は支払えないという謎理論があったからである。

きっつ……。控え目にいってクソである。

「自己責任で」と残業を強いるブラック企業のやり方

法的に完全にアウト。だが、会社のゴリ押しする「残業は存在しない」という謎理論の根底にあった、「仕事とは所定時間内で終わらせるもの」という考え方には、正しい面もある。

「残業が発生するのは正常な状態ではなく、異常事態である」という認識、そこだけは正しい。

ただし、その異常事態を社員の能力不足や失敗のせいにするのがブラックだ。どう考えても処理しきれないめちゃくちゃな量の仕事を社員に押し付け、終わらなければ仕事のやり方が悪い、能力が足りないと社員を恫喝するのである。

こんなこともあった。退職者が続出し、人がまったく足りない状態で、とある事業の立ち上げが迫っていたときのことだ。

「残業は認められないが、納期に間に合わないのも認めることはできない。もし、自主的に残業するなら、あえて俺は見て見ぬふりをする。自己責任でやってくれ。納期に間に合わず顧客に迷惑をかけることはできないよなあ……」

当時の上司はこう言い残すと、一人だけ帰っていった。真面目に働いている者に罪悪感を与えてコントロールする。典型的なブラックのやり方だ。

残業が発生するのは「上司のせい」である

だが、今、僕が営業部長として働く職場では、残業のとらえ方がまったく違う。

ここでは所定時間内に仕事が終わらなければ、それは管理者サイドのマネジメントがうまくいっていない、つまり残業は管理者サイドの失態・失策だという考え方が徹底されている。

そのため、僕らのような管理職は、スタッフに残業が発生したときはトップから厳しく追及される。現状報告と原因の分析、それから対策。「チームに与えられた総労働時間」の中で目標をクリアするよう求められる。

「目標をクリアしても労働時間がオーバーしていれば、成果を上げていてもその価値は下がる」というのが社長の口癖で、それが実務上に反映されているのだ。

そういう社風なので、今の職場では18時の定時になった瞬間、社員が一斉に帰り支度をはじめ、18時10分を過ぎる頃には事務所内はほぼ誰もいなくなる。18時ジャストで「お疲れ様でした」といって姿を消す猛者もいる。

「さすがに定刻前に帰宅の準備を完了して18時ジャストに姿を消すのはいかがなものか」と思うが、そんなつまらないことを気にしているのは僕くらいのものだ。

任されたタスク、その日終えておくべき目標をクリアしていればいい。オールオッケー。そんな意識が共有されている。

かつては長時間、限界以上に働くことが美徳だった

そのため、残業があってもせいぜい1時間、長くても2時間。また、残業をした場合には、法で定められている以上の金額の残業代が支払われている。

素晴らしい。エクセレント!

……ちょっと待ってほしい。残業について、このような感想を持つことがそもそもおかしいのではないか? 本来、残業は異常事態なのだから。

残業代を法定以上に払っているからいい、という話でもない。残業代を多く支払ったからといって残業をさせることが免責されるわけではないのだ。

それなのに素晴らしいという感想が漏れてしまうのは、残念ながら若い頃に「どれだけたくさん働くか」が美徳とされていた時代を通過してしまったからだ。

たとえば、かつて「24時間戦えますか?」という流行語があった。今ならSNSで炎上まちがいない。だが、当時は、それがイヤイヤ受け入れられる、というよりは、それがカッコいい働き方として崇められていた

結果や成果ではなく、たくさん、長い時間、汗水を限界以上にたらして、働くことが至上とされていたのだ。「働くこと」は、イコール、「働いている俺カッコいい」だった。そう。「24時間戦えますか」はカッコよかったのだ。

今は違う。働くことは、効率よく結果を出していくことだ。「24時間戦えますか」と口にしたら、パブリックエネミーとして葬り去られるだけだろう。

新しい働き方をめぐる世代間格差

新型コロナの感染拡大によって、僕たちの働き方は大きく変わった。ちょうどこの原稿を書いている間にも、超有名企業が副業を認めたり、週休3日や週休4日を認めたりと新しい働き方への動きがいくつも出てきている。

会社員として生き抜くためには、この新しい波に乗らなければならない。

20代30代といった若い人たちはまったく問題ない。会社で彼らを見ていると、より効率的な働き方をしたいという気持ちが強い。彼らはいい意味で会社と仕事に対してドライだ。

たとえば残業についても、いくら残業手当が支払われても「残業するくらいなら、明日頑張ります」といって帰宅の途についてしまう。

働くことがイヤなのではない。いかに効率的にお金を稼ぎ、スキルアップ、キャリアアップしていくかを第一に考えているのだ。だから、新しい働き方も抵抗なく受け入れるはずだし、実際にそう見える。

でも、「24時間働けますか」が染みついてしまっている中高年にとってはそう簡単な話ではない。新しい働き方を受け入れることは、これまでの働き方を否定することでもある。自分が経験して、相応の結果を出してきたものを、否定することはひどく難しいからだ。

モヤモヤは「古い考え方を捨てろ」というサイン

実は、僕も、新しい働き方に移行できない中高年のオッサンのひとりである。

納期が迫っている案件を抱え、どう見ても間に合うようには思えないのに「大丈夫です。これからビジネス英会話教室に行くので失礼します」といって涼しげに帰宅する若手社員。

その姿を見ると、「自分なら残るぞ……」「ヤル気がないのかな」「仕事をどう考えているのだろう」というモヤモヤが沸き起こるのを止められない。

残業はよくないこと。強要してはいけない。理屈では頭ではわかっている。だが、その一方で、「終わっていないならやっていけよ! 残業しろよ」と声を出してしまいそうになるもう一人の自分がいる。

こういうとき、僕は、「古い考え方を捨てろ」と神様がサインを出してくれているのだと思うようにしている。過去を否定するのではなく、古くなったパソコンを捨てるように、役割を終えたものとしておさらばする。否定することなく、捨てていく。

この考え方は、働き方の変化だけでなく、転職や配置換えで新しい職場に適応しなければいけないときなどにも有効だと思う。

仕事、働き方は時代で変わっていくものだ。通過してきた時代によって、180度まったく異なる労働観を持ってもおかしくない。平成が始まったころ、24時間働くことが美徳とされていたように。

今を生きる僕らにできることは、その時代時代に合わせて、働き方をアジャストしていくこと。過去を過去として割り切って、新しい考え方を受け入れていくことだ。ひとことでいってしまえば余裕を持つことになる。

余裕さえあれば、理解しがたい新しい考え方でも、受け入れていくことはできる。「オッケーわかったわかった」と余裕を見せて、わからないものでも、取り入れてみることだ。

否定ではなく、違いを認識すれば、「そういう考えもあるよね」と受け入れることはできる。違うからといって敵対しなくてもよいのだ。どんな時代であれ、真剣に働くことと向き合っていれば、価値観や方法に差異はあっても、同じ方向へ向かって進むことはできる。

「残業代で稼ぐ」はパブリックエネミー

逆にいえば、どんな時代であっても、真剣に働くことと向き合っていない人間はダメだ。たとえば、わざとグダグダ働いて、まともな仕事もせずに残業代を稼ぐ人たちがいる。「残業代稼ぎマン」である。

僕の中には「24時間戦えますか」時代の働き方を否定しきれない部分があるけれども、「グダグダ残業代を稼ぐマン」は完璧に100%否定できる。そして、残念ながらグダグダ残業代稼ぐマンは今、令和の時代にも相当数存在している。

僕の職場にもいる。18時10分にはほとんど人がいなくなるオフィスで、一人ダラダラと残業している社員だ。年齢はもう60歳近い。仕事は普通にできる人だが、残業がとびぬけて多いのだ。

あまりにも目に余るので注意したとき、驚くべき言葉が返ってきた。「残業代で稼がないと、家のローンが返せません」と彼は言ってのけたのだ。「給料を上げてもらえれば残業はしなくてすみます」「残業は本意ではありません」と。

滅茶苦茶である。

「無意味な残業はやめてくれ。副業も認めるから」。そう伝えると「私にとっては意味があります! 副業はめんどうだからやりたくありません」と彼は言った。

知らねーよ。このとき僕の中にモヤモヤとした感情が湧いてきた。それは、若手のクールな仕事ぶりを目の当たりにしたときのモヤモヤとはまったく違う、単なるストレス性の胃のむかつきであった。

人間の数だけ働き方についての考え方があって、否定せずに受け入れていきたいと考えている。でも、残業代稼ぎマンみたいな考え方だけは、見つけたら叩き潰しておきたい。未来ある若い人たちの足を引っ張るだけの害悪だからね。

「24時間働けますか」はもう古い。僕らの24時間は、仕事のためにあるのではない。自分自身の人生のためにあるのだ。

<イラスト/小田原ドラゴン

この記事を書いた人

フミコフミオ

フミコフミオ

海辺の町で働く不惑の会社員。普通の人の働き方や飲食業や給食について日々考えている。現在の立場は営業部長。90年代末からWeb日記で恥を綴り続けて20年弱、主戦場は、はてなブログ。

ブログ:Everything you've ever Dreamed

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