戸田 奈津子
プロフィール
東京都出身。お茶の水女子大学付属高校から津田塾大学英文科卒。初の字幕翻訳作品は「野生の少年」。その後、数多くの名作、大作の翻訳を担当する。著書に「スターと私の映会話!」「男と女のスリリング」「字幕の中の人生」など。映画翻訳家協会元会長。第1回淀川長治賞受賞。
「スターと私の映会話」
集英社文庫/560円(税別)
いくら好きだからといっても、中には簡単に就けない仕事も少なくない。戸田さんは自著の中で字幕翻訳家になるには、「長期戦を覚悟で、真剣にねばり通す気があれば、決して不可能な道でもない」と述べている。
「最初の10年はまったく字幕の仕事をやらせてもらえませんでした。それから徐々にやらせてもらえるようになり、コッポラ監督と出会い、『地獄の黙示録』の翻訳を担当してプロの字幕翻訳家と認められるまで20年かかりました。
現在、字幕翻訳家は日本に20人ほどしかいません。狭き門であることは確かです。それでも字幕翻訳家になることは、決して不可能ではありません。
もちろん、才能は必要ですし、タイミングも重要です。何しろ20人いれば十分という世界ですから、一人が辞めて空席ができるといったタイミングも大きな要素となります。
夢を追いかけると必ず叶うといわれていますが、それはミスリーディングな言い方です。
ギャンブルに例えるなら、叶うか叶わないか、五分五分なのです。だから、叶わない部分も見なければなりません。
私もネガティブな面は見ていました。自分で決めたことだから、それでいいと判断したのです。それでダメでも、挫折しても誰も責められません。
ただ、高度成長の時代でしたから、失敗したとしても餓死はしないなと思っていました。それがボトムラインと思えば、怖くありませんでした」
「石の上にも3年」といわれるが、「若者はなぜ3年で辞めるのか?」という本がベストセラーになるなど、現代の若者はあきらめが早いのも事実だ。戸田さんはなぜ20年も待つことができたのだろうか。
「無にかけているわけですから、不安がないということはあり得ません。最初から20年と決まっていたわけではなく、結果として20年かかったという感じです。明日は何とかなるかもしれない、それにすがって毎日を乗り越えていました。明日になれば何とかなるという何の保証もなかったのですが。
でも、毎日毎日暗い顔をして過ごしていたわけでもありません。ちゃんと楽しんでいましたよ。ときどき新しい就職とか結婚とかを勧められるのですが、右か左かを突きつけられると、やはりこっち(字幕翻訳の道)しかないのです。先を考えると不安なので、その日のことを考える、その連続でした。
どういう状況になったらあきらめるか、それはケースバイケースでしょう。私は考えたことがありませんでした。年だからといってあきらめる必要もまったくありません。
だからといって、その間、字幕翻訳の勉強をしていたかというと、そうではありません。本の翻訳なら、当時でも英語で書かれた本は手に入りましたから、練習をすることは可能でした。 ところがテープやビデオ・DVDなどは、当時はありません。ヒアリングなどできないのです。(英文の)台本はもちろん手に入りません。字幕の翻訳は、秒数で翻訳文の長さが決まりますから、練習をする方法すらなかったのです。この世界は徒弟制度が成立しませんから、誰も教えてくれません。20年間、字幕の練習はほとんどできなかったのです。 ただひたすら英語や日本語の本を読み、先輩たちの字幕を見るしかありませんでした。 (字幕特有の)スキルも重要ですが、英語がわかる、さらに日本語がわかるという周辺の部分が重要なのです」
「これまでの最高傑作は?」と訊かれたチャップリンは「ネクストワン(次回作)」と答えたという。
私たちが観てきた名作、大ヒット作の多くは戸田さんの翻訳によるものだ。戸田さんにとってベストの作品は何なのか。
「私たちの仕事には締め切りがあります。しかも、最近は信じられないスケジュールを強いられます。
(ニコラス・ケイジが主演して昨年末に日本で公開された)『ナショナルトレジャー』のフィルムが届いたのは、公開日の1週間前でした。普通、翻訳に1週間、(字幕を入れる)工場の作業に1週間、ミニマムでも2週間はいります。未完成のフィルムの断片は一応来ていましたが、このように極めて限られた時間の中で仕事をしなければならないのです。その中でいかにいいものに仕上げるか。
作品の評価は外部の人たちにお任せしています。翻訳に関する批判はありますし、いろいろと言う人がいますが、その時点で私がベストを尽くした結果なのですから仕様がない。
過去の作品を今観てみると、直したいところだらけです。でも、自分の仕事が100点だと思ったら、もうおしまいでしょう。あのモーツァルトでも、自分の音楽を聴いたら、直したいところはいっぱいあるのではないでしょうか。
映画が好きだからといって、すべてがおもしろい映画とはかぎりません。中にはつまらない映画もあります。得意ではないジャンルのものも来ますが、でも、私は字幕の仕事が基本的に好き。嫌なら辞めているはずですから。
日本は、字幕で映画を観ることが慣例となっている数少ない国です。例えば、アフガニスタンの映画ならば、せりふもやはりアフガニスタン語の響きで聞きたいですからね。字幕の原稿は無味乾燥の日本語ですが、それが画面に載って、俳優が抑揚のある言葉でしゃべると、観客は話し言葉を読んでいるように錯覚するのです。それが字幕のおもしろいところなのです」
戸田さんを目標として、字幕翻訳家を目指す若い人が増えてきた。戸田さんの生き方に憧れる若い女性も多い。
だが、戸田さんが現代の若い人に対してもっている印象は厳しい。
「個人差はありますが、最近は男性よりも女性のほうがしっかりしているように思えます。映画の世界でも、何か頼むときは女性に頼むほうが安心できるような気がします。
もし、今の若い女性に問題があるとすれば、個性に欠けることでしょうか。髪型もメークも、みんなよく似ています。右へならえです。長い靴下を履けば、みんな長い靴下。みんなが長い靴下ならば、自分は短い靴下を履くというような個性の主張をしてほしい。
英会話を勉強する人、勉強したいという人も増えています。英語の環境の中へ自らを放り込んで、水の中でアップアップする状態をつくることです。それが上達への道です。英会話はプラクティスがなければ上達はしません。
本当に英語の力をつけたければ、英語の文章を書いてみるのもひとつの方法です。頭では理解しているつもりでも、いざ実際に書いてみれば、いろいろな疑問が起こってきます。この冠詞はaだったのかtheだったのか、ここは複数だったか単数だったかなど、それらの細かい部分を学ぶことで力がついていくのです。
小さな積み重ね、努力がなければ何ごとも上達は望めません」